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ネット大炎上、シェアハウス盗難、相模原事件…「つながり」とは何か

社会はクソだし、他人は意味不明だけど
この時代、「つながり」とはいったい何なのか? 銭湯×シェアハウスを舞台にした小説『メゾン刻の湯』を上梓した作家の小野美由紀さんが、自身のシェアハウス生活や相模原障害者施設殺傷事件などから、この社会におけるつながりを考察する。

「社会ってクソだな」

デビュー作のエッセイ『傷口から人生』が発売される少し前、私の住むシェアハウスはお通夜みたいな空気に包まれていた。

なぜなら、シェアハウスの同居人だった大学生・青木大和くんが、当時小学4年生のふりをして自民党の解散総選挙を非難する趣旨の「どうして解散するんですか」と言うウェブサイトを作ったことが発覚し、SNSで大炎上したからである。

毎日毎日、マスコミがシェアハウスの前にたむろし、安倍晋三首相にまでFacebookで名指しで叩かれるほどの事態となり、青木くんは見ず知らずの人々からSNS上で暴言を吐かれ続け、彼の知人友人にまで攻撃はおよび、私たち同居人は、訪れ続けるマスコミを避けるために、ただ身を寄せ合い、家の中に引きこもっていた。

玄関前にはマスコミが始終たむろしていた。毎日、毎日、奴らは玄関の前に現れ、無数の名刺が玄関の下におしこまれた。刻の湯の表の方まで彼らはやって来て、ぼくたちは休業せざるを得なくなった。マスコミだけじゃなく、どこかからか押し寄せた野次馬たちがスマホをこちらに振りかざしていた。たくさんの目が僕たちを-「世間」というものに対して「迷惑」をかけた、想像上の「アキラさん」という人格を突き刺し、蹂躙し、無残に踏みつぶした。(メゾン刻の湯より引用)

数日経っても騒ぎは収まらず、SNSには「青木大和は創価学会員」だとか「韓国に帰った」だとか、ありもしないデマがさも真実であるかのように書き込まれ、当時付き合っていた彼女の顔や家族のプロフィールまで晒されていた。

新聞記者がピンポンピンポン、毎日のようにインターホンを鳴らして、ハイと出れば大して名乗りもせずに「取材させてください」と来るので、「あぁ~うち、新聞とってないんで」と言って追い返した(後で新聞記者の友達にそれを話したら「あ、それ、一番新聞記者がイラっとくる追い払い方だね」と言っていた)。

近しい人間の魂がサンドバッグにされ続けるのをリアルタイムで目の当たりにした私は「本当にネットってクソだな、いや、社会ってクソだな」って思いながら、家の中に引きこもり、こたつで雪見だいふくを食べながら原稿を書き、SNSの画面をスクロールし、テレビの画面に映る彼の名前をぼーっと黙って眺めていた。

そのうち騒ぎは収まり、誰も青木くんには見向きもしなくなった。

 

銭湯にいた、認知症のおばあちゃん

アルバイトを辞めてフリーのライターになりたての頃、代々木八幡駅のすぐそばにある4.5万円の風呂なしアパートに住んでいた。

仕事を一度でも辞めたことのある人間ならわかると思うが、無職は孤独だ。

金もない、人とのつながりもない、社会から求められてもいない。

することがないのでSNSばかり眺めていると、肥大した自意識が自分を殺しにくる。
そんな時、銭湯に行くとホッとした。

通っていたのは駅から徒歩2分の八幡湯。何の変哲も飾りっ気もない、小さな銭湯だ。

お湯の中に体を投げ入れる。

湯も湯気も、私が何者であるかを問わない。

湯に入っている間は、誰しもが肩書きを剥ぎ取られた一つの肉体である。

湯気が、しわが、他人の裸体が、肥大しがちな私の自意識を身体のサイズに収めてくれた。

こうして湯船から眺めていると、どの裸体も、まるで大した差のないような気がしてくるから不思議だ。若いのも年取ったのも、美しいのも醜いのも、色の黒いのも白いのも、背の高いのも小さいのも、全員揃って、ただの一枚の皮袋。満員電車で息をひそめ、触れ合わないよう必死で身を縮めているうちにはまるで感じなかったことだ。服を脱ぎ、同じ湯につかるだけで、なぜこんなにも、他人の存在を屹立した一個の生命として強く感じられるのだろう。(メゾン刻の湯より引用)

社会から宙ぶらりんの無職の若者にとって、銭湯は、人々の刻む生活のリズムが皮膚感覚で感じられる唯一の場所だった。

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