photo by iStock

天才アインシュタインの「脳」の秘密がわかった!

グリア細胞が突出して多かった

「天才アインシュタインの脳は、一般人の脳と何ら変わらない」と言われてきたが、最新の脳科学の知見に基づいた病理解剖によると、ニューロンではない別の脳細胞の数が桁違いに多かったことがわかった。

その細胞の名前は「グリア」。脳細胞の8割以上を占めるグリア細胞は、これまでニューロンの間を埋める詰め物と軽視されてきたが、近年の研究で、神経細胞を制御する重要な役割を果たしていることがわかってきた。グリア細胞研究の最新の科学的知見を紹介した『もうひとつの脳』に収録された、アインシュタインにまつわるエピソードを紹介しよう。

比類なき知性が宿った脳

解剖を終えると、彼はステンレス製のトレイにメスを置き、切り開いた頭蓋骨に両手を差し入れて、細心の注意を払って脳をすくい上げた。

人間の脳を手中に抱くたびに、死の必然性や、個性や生活形態や精神性、各人に与えられたこの世での役割に関する神秘について、さまざまな思いや感情が胸中に湧き上がってくる。この稀有な人物を形作るあらゆるものは、ほんの数時間前まで、このわずか一・五キログラムほどの複雑な組織として存在していた。

 

病理学者である彼は、過去に幾度となく同じような感情を抱いてきたが、今回ばかりはその思いも格別だった。なにしろ、目の前のステンレス製の台に横たわる遺体は、アルベルト・アインシュタインであり、両手に抱えていたのはアインシュタインの脳だったのだ。

明るい照明の下で脳を詳しく調べながら、彼は深い驚異の念に打たれて目を見張った。ゼリーのようにみずからの重みでわずかにたわみ、ほかのどんな人間の脳ともまったく変わりなく見えるこの脳が、前世紀屈指の優れた知性を生み出すことができたとは。そのとき不意に、トマス・ハーヴィ博士はこの脳の中に自身の運命と目的を見出した。それはまさしく、彼の使命だった。

食塩水で丁寧に血液を洗い流したあと、ハーヴィは脳の重さと大きさを計測し、直前に作っておいた、目や鼻を刺激する毒性の強い気体であるホルムアルデヒドの10パーセント溶液に浸けた。

この偉大な人物の遺体が埋葬されるかたわら、その驚異的な脳は、自身の手元にそれを置いておきたいという強烈な衝動に突き動かされた一人の病理学者によって、博物館の珍しい標本のように、保存液の入った広口瓶の中に沈んだまま、その後も四〇年にわたって隠され続けた。

それは、倫理的にも法律的にも許されることではなかったが、この脳があのような類まれな科学者を生み出せた秘密を解き明かすことは、自分の運命であり、科学と人類に対する責務であると、ハーヴィには思われたのだった。

だがそれは、この病理学者の能力ではとても及ばない仕事だったため、彼はこの科学界の至宝を管理することこそが自分の役割だと考えた。ハーヴィはその後40年にわたって、世界中の科学者、あるいは科学者と称する者たちにその脳の小さな切片を分け与え、さまざまなやり方でアインシュタインの稀有な才能の正体を突き止める手がかりがないかを調べさせた。

そこには比類なき知性が存在し、その知性はほかの誰にも想像できないことを着想してきた。相対性理論があますところなく構築され、詳細に説明されたあとも、その思考は多くの人の理解力を超えていた。

時間の進み方さえ一定ではないという発想をしえた知性だった。時間と空間、物質とエネルギーは独自性を失い、一方から他方へと自在に姿を変えた。伸縮する時間のなかにあっては、事象もまた流動的なものとなった。そして、思考力だけを頼りにこの発見を成し遂げるために、この知性はなんと、自分が一筋の光線に乗っているところを思い描いたというのだ。

30年後にわかった新事実

アインシュタインの脳が盗み出された30年後、カリフォルニア大学バークレー校の著名な神経解剖学者のもとへ、その脳の4つの小塊が届いた。彼女が今手にしている試料瓶には、アインシュタインの大脳皮質の入念に選んだ部位から採取された4つの組織片が入っている。

マリアン・ダイアモンド博士の考えによれば、アインシュタインの優れた才能は、想像や抽象化、高次認知機能の卓越した能力に関係していたのだから、こうした認知機能を司る大脳皮質の部位に、彼の才能を裏付ける何らかの物質的根拠が見つかるはずだった。それは、アインシュタインにとくに際立った点のなかった聴覚や視覚、あるいは運動制御といった機能を担う部位ではないはずだ。

ハーヴィはアインシュタインの大脳皮質をブロックに切り分け、そこに番号を付けて、ニトロセルロース化合物であるセロイジンに埋め込んでいた。この溶液は固まると、琥珀が昆虫を包み込むように、組織を包埋する。ダイアモンドは、大脳皮質連合野の2つのサンプルを調べたいと考えていた。連合野は、情報を収集して分析・統合する部位だ。彼女はハーヴィに、額のすぐ下に位置する前頭前野のサンプルと、耳のわずかに後方上部に位置する下頭頂野のサンプルを送るよう依頼した。

脳の左右両側のサンプルを入手することが重要だった。というのも、たいていの場合、人間の右脳と左脳はそれぞれ異なる認知機能を司る傾向にあるからだ。それはちょうど、日常生活で右手と左手の役割が異なるようなものだ。前頭前野は計画の立案や近時記憶、抽象化、情報の分類などに関与している。

悪名高いロボトミーは、この部位を脳から断ち切る。その結果、基本的な精神機能は損なわれないものの、経験を知力で抽象化したり、統合したりといった高度な認知能力が失われ、患者は従順になる。

ダイアモンドは、アインシュタインの下頭頂野のサンプルも依頼していた。この部位は、心像[心的イメージ]や記憶、注意に関連しているからだ。

この領域、とりわけ優位な側(通常は左半球)のこの脳部位を損傷した人たちは、言葉や文字を認知する能力を失い、文字を綴ったり計算したりできなくなる。大脳皮質のこの領域を損傷したあと、数学の問題を合理的に解くことに困難を覚えるようになった数学者の話を紹介する医学文献もある。

マリアン・ダイヤモンド博士らがアインシュタインの才能の手がかりを求めて調査したアルベルト・アインシュタインの大脳皮質の部位。(A)前頭前野、(B)下頭頂野

ダイアモンド博士はヒト大脳皮質の解剖学を長年研究してきたが、その経験でさえも、ヒト脳から採取された、クリーム色をした角砂糖ほどの大きさのこれら4つの小塊を光にかざしたときに湧き上がる驚異や興奮や期待感を弱めることはなかった。そのサンプルは特別だった─少なくとも、その脳から発現した知性はそうだ。

アインシュタインの類いまれな才能を、この脳組織が生み出しえた秘密を突き止められれば、知性と脳を結びつける細胞機構についての洞察が得られるはずだ。そしてまた、私たち自身の脳がどのように機能し、不運にも病に見舞われた知性がどうして機能不全に陥るのかについても、明らかになるだろう。

ダイアモンドには、これらのサンプルを適切な対照サンプルと比較して考証する必要があった。ある疑念に彼女の興奮はすっと冷めた。

というのも、彼女の研究室には、さまざまな多くのヒト脳から採取した組織サンプルを載せた顕微鏡スライドを収めた箱が、所狭しと並んでいるが、アインシュタインの脳はひとつしかないのだ。アインシュタインの脳がきわめて非凡な性質であるということは、どのような結果が得られるにせよ、その実験はけっして再現できないことを意味していた。

ある実験の結論を下すにあたって、科学者の誰もが直面する不確実性という課題は、再現可能性がない場合には、いっそう払拭困難になるだろう。どのようなデータから得た結論も、誤りである可能性を免れない。だが科学は、観察やデータ収集、事実の蓄積によって進歩するものだ。

となると、アインシュタインの脳を調べるのは、やめておいたほうがいいのだろうか?

実験結果の不確実性に対処するために、科学者は計測を繰り返して、対照群と実験群から得たデータの差異がまったくの偶然によって生じうる確率を数学的に算出する。これは、犯行現場に残されていた一本の金髪の有意性を、母集団に金髪の人物をどれほどの確率で見出せるかを知ることによって、ある程度判断できるのと似ている。