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高学力だけでは不十分な時代に求められる「教育とスキル」は何か

教育の成果を最大化するには
畠山 勝太 プロフィール

最後に説明責任である。

確かに日本では、現場の教員レベルから霞が関や永田町に至る公教育システムが説明責任を負ったことはほとんどない。

しかし、学力を基に説明責任を果たさせるだけでも、乗り越えなければならないデータ整備の壁が立ちはだかる。

子供の学力が向上していないことの説明責任を求めるためには、その責任が教員にあるのか、学校運営(校長)にあるのか、教育マネージメント(教育委員会)にあるのか、家庭や地域社会にあるのかをはっきりとさせる必要がある。

これを分析する手法が「Value-Added Model」(VAM)である。

VAMは、家庭・生徒・教師・学校・地域社会のデータを包括的に収集することで、諸条件を一定とした時に、教員がどれだけ子供の学力向上に寄与しているのかを測定する手法である。

この諸条件を一定とするという作業を行わないと、教員の寄与度を測定することが出来ない。なぜなら、前回の記事(「日本人が大好きな『ハーバード式・シリコンバレー式教育』の歪みと闇」)でも言及したように、米国の教育制度は過度に分権化されているために、貧困のために家庭環境も地域社会も子供の発達に望ましくないような地域の学校では、教育環境も悪く、生徒の学力も低い。

このため、この作業を行わないことには環境が悪いから子供の学力が低いのか、それとも環境も悪いし教員の質も低いから子供の学力が低いのか判別がつかない。

そして、上のモデルは実際にNYで運営されているVAMで用いられているものであるが(詳細はThe New York Timesの記事を参照)、学力に加えて、生徒の家庭環境の特長・教員の特徴・学校の特徴・地域社会の特徴と、これだけのデータを揃えないことには、VAMを運用して誰にどれだけ責任があるのかはっきりさせることができない。

このように、学力に基づく説明責任を求めるだけでもかなりの労力が必要とされるが、ソーシャルスキルといった学力以外の教育成果を考慮しだすと、複雑度がここからさらに上昇する。

なぜなら、ソーシャルスキルをどのように指標化するのか、学力とソーシャルスキルの間にどのようなウエイトを付けて説明責任を求めていくのか、これらの課題は解決しないことには説明責任を上手く追及できないからである。

 

このように、ソーシャルスキルの重要性が高まる社会においては、市場メカニズムを活用するために行政側にかなりのキャパシティが求められ、その程度は日本の文脈においてはもはや現実離れしているとさえ考えられる。

しかし、ここでの議論は市場メカニズムの重要性を否定するものではない。むしろ、これはより良い教育を目指すために欠かせないものである。

しかし、市場メカニズムを活用してより良い教育を目指す営みは、ソーシャルスキルなどの多様な教育成果を無視し、教育成果を学力に矮小化・単純化した上でなされるものであってはならない。

既に米国が20年近くかけて、このような矮小化・単純化がどのような帰結を招くのかを見せてくれている中で、同じ失敗を繰り返そうとするのは愚かだとしか形容のしようがない。

〔PHOTO〕iStock

これからの社会での研究者の在り方

社会の二極化を招くスキル偏向型の経済成長は、米国だけでなく欧州でも確認されており、日本を含めた先進国で広く見られる現象となっていく可能性が高い。

そのような社会で重要となるのはソーシャルスキルである。子供たちにソーシャルスキルを養うための教育は、過去30年の米国で見られたような学力偏重型の教育政策では実現できない。

そして、子供達に二極化の時代を生き抜くための力を養う教育政策を実現するためには、教育行政のキャパシティの充実が重要となる。

少なくとも、現在の日本のジェネラリスト型の教育行政システムではこれに対処することは不可能であり、教育行政の人材の在り方の抜本的な見直しが必要となるだろう。

さらに、このような課題は教育行政だけでなく、アカデミアにも突き付けられる。大学院レベルでの教育行政人材の育成もさることながら、従来の教育政策研究の在り方の見直しが必要となる。

これまでは既存のデータを活用して学力や非認知スキルに着目して「エビデンス」と称する研究が為されてきたが、もはやこのような研究で「エビデンス」と語るのは危険な時代になりつつある。

教育政策研究が、ソーシャルスキルの養成を中心とする、教育が現代社会において果たすべき役割を広く考慮しないことには、米国と同じ過ちを犯すであろう。

二極化が進む現代の荒波を日本が乗り越えていくには、社会・行政・アカデミアが一丸となり、より良い教育政策を構築していかなければならない。