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高学力だけでは不十分な時代に求められる「教育とスキル」は何か

教育の成果を最大化するには
畠山 勝太 プロフィール

米国の過ちを後追いする日本

日本は米国と比べるとICTへの投資が進んでいないので、スキル偏向型経済成長の進展が進んでいないのかもしれない。

しかし、遅かれ早かれ、ないしは既に、STEM分野の学力だけでは不十分で、教育を通じてソーシャルスキルを身に付ける重要性が高まっていく社会になっていくことが予想される。

しかし、現在の日本ではこの方向から外れた、米国の過ちを後追いする教育政策議論が散見される。

特によく見かけるのが、学力向上を狙った教育政策における市場メカニズムの活用である。

これを分かりやすく言うと、塾と学校を比較し、学校は塾と異なり市場原理が働いていないからダメだ、という議論である。

 

この議論は、教育の目的が学力向上だけに絞られている場合にはある程度の妥当性を持つが、ソーシャルスキルの重要性が高まりつつある社会では、これを活かすための条件が遥かに複雑になるため、それ相応のキャパシティが行政に無いことには妥当性を持たないどころか、教育や社会に対して害悪をもたらす可能性すらある。

そして残念なことに、採用時に大学院レベルの専門性を持っていることが前提条件となっていないことに象徴されるように、日本の教育行政は教育政策のスペシャリストではなく、ジェネラリストの集団から成り立っている。

このため、日本の教育行政は市場メカニズムを活用できるだけのキャパシティを持ち合わせていない可能性が高い。

もう少し詳しく考察するために、教育政策における市場メカニズムの活用について議論しよう。

図4

上の図で示したように、教育における市場メカニズムの活用は「選択・インセンティブ・説明責任」の3要素から構成される。

現時点でも具体的に学校教育に市場メカニズムのどの部分が欠けているのか具体的に議論されていることはほとんどないが、以下ではソーシャルスキルを考慮した場合、この3要素にどのような影響が出るのか議論する。

まず、「選択」である。学校選択制に象徴される公教育における「選択」の導入は、教育機会の階層化という問題を孕むものの、選択肢を与えられた消費者をより多く取り込むため、学校間で学力向上を巡る競争が促され、子供の学力が向上する、という可能性を持っていた。

しかし、ソーシャルスキルの物差しを入れると、階層化とは別の問題が発生する。塾を例に出すと、大半の親が塾に求めるものは教育=学力という単一の財であるため市場メカニズムが機能しやすい。

しかし、公教育は同じ教育と称されるものであっても、その中身には学力やソーシャルスキル、社会統合など多様な財が含まれる。

卑近な例を引けば、塾を選ぶ際には学力向上の費用対効果が主な決定要因となるが、学校を選ぶ際には学力・校風・学友など様々な要因が考慮され、費用対効果の選定が複雑になる。

このように、財が均一な時と比べて、財が均一でない時は、選択が競争を促しづらくなるが、実際に米国でも、日本の公設民営学校の原型となったチャータースクールの研究結果から、公教育に対する「選択」の導入はよほどの条件がそろわなければ機能しないことが明らかになりつつある。

次にインセンティブである。教育に求められる成果が学力だけであった場合、学力向上に対してインセンティブを設定すれば、学力向上のためにより一層の努力を引き出すことが出来る可能性があった。

しかも、これはあくまでも可能性の話であり、実際には学力というアウトプットにインセンティブをかけてもあまり機能せず、学力につながると考えられているインプット(例えば教案作成や研修参加など)にインセンティブを設定すべきだと教育政策の分野では言われている。

しかし、ソーシャルスキルという教育成果が加わった、求められる教育成果に多様性がある条件下では、これがより一層複雑になる。

なぜなら、学力のような特定の成果にだけインセンティブを設定すると、それが設定されなかった成果に対する努力が減少してしまう。

日本でも学力テストの結果に基づく教員評価を導入しようという議論が起こるが、包括的な成果指標に基づく教員評価ならまだしも、学力に絞った教員評価は、学校・教員が学力以外の重要な教育成果に対して努力をするインセンティブを歪めてしまう。

特にソーシャルスキルが持つ、学力との相関関係は低いが補完関係があるという特徴は、学力にだけ教員の注意を引き付けるようなインセンティブ設計が大きな問題を孕むことを示唆している。

そもそも、ビッグデータや機械学習の出現した現代において、豊富なデータを持ってあぶり出すような形で教員を評価するのではなく、学力というハードルを設定してそれを飛び越えられるかどうかで評価しようとするアイデアそのものが時代遅れだとすら考えられる。