現地部族長と話す当時の佐藤正久1佐(半田滋氏撮影)
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イラク日報「最も緊迫した1年の記録」はどこへ消えたのか

実に派遣期間の55%が欠けている

2004年度の日報はどこに消えた?

防衛省は陸上自衛隊のイラク日報を公表した。しかし、宿営地にロケット弾が撃ち込まれ、危険が迫り始めた2004年分はそっくり抜けており、イラク派遣の全体像を知る文書とは到底いえない代物となっている。

戦闘状態を思わせる日々を記した日報がないのは、当時、小泉純一郎首相が「非戦闘地域への派遣である」と明言していた一方で、実際にはその言葉とは裏腹な「戦闘地域」への派遣だった疑いが表面化するのを避けるため、あえて破棄したと考えるほかない。

陸上自衛隊のイラク派遣は2004年2月から06年7月まで2年半に及び、延べ5600人の隊員がイラクに送り込まれた。イラク特別措置法にもとづき、施設復旧、給水、医療指導といった人道支援活動を行った。

憲法で禁じた武力行使にならないよう、米軍が戦闘を続けるバクダッドから離れた南部を選び、しかもイラク諸州の中でもっとも人口密度の低いムサンナ州の州都サマワ市に宿営地を置いた。

小泉首相が「自衛隊が活動している地域は非戦闘地域だ」と国会で大見得を切ったにもかかわらず、派遣期間中には13回22発のロケット弾が宿営地に向けて発射され、うち3発が宿営地内に落下。1発はコンテナを突き抜けたことがわかっている。死傷者こそ出なかったが、隊員は常に襲撃の恐怖にさらされていたことになる。

 

派遣部隊は人道支援活動を行う復興支援群(約500人)と、復興支援群のために地元政府と交渉する復興業務支援隊(約100人)という2つの部隊からなっていた。日報はそれぞれの部隊で作成され、毎日、インターネット回線を通じて陸上幕僚監部運用課(現運用支援課)に送られた。

防衛省が16日に公表した日報のうち、復興支援群の分は陸上幕僚監部衛生部に保管されていた日にちが揃った日報でさえ、05年3月23日から06年7月19日まで。

より古いのは陸上自衛隊研究本部にあった04年3月1日の日報、次に古いのは陸上幕僚監部防衛課にあった04年9月22日の日報だった。復興業務支援隊の日報は04年1月20日から同年2月29日までの分しかなかった。

つまり、04年3月2日から05年3月22日まで1年分の日報は9月22日の1日分を除き、ごっそり消えているのである。

この時期は部隊がサマワに宿営地を建設し、活動を始めたものの、ロケット弾攻撃にさらされ、隊員たちが戦場に放り出された気分になっていた時期にあたる。「消えた日報」が存在するならば、どのような内容が記されているのだろうか。

激動の2004年に起きた事件

当時を振り返ると、最初にロケット弾が発射されたのは04年4月7日だった。同月22日には同じサマワに駐留していたオランダ軍の宿営地がロケット弾攻撃を受け、さらに同月29日には自衛隊宿営地に2回目のロケット弾攻撃が仕掛けられた。

8月10日には3回目の宿営地攻撃があり、同月21日から24日まで3夜連続してロケット弾が発射されている。ルメイサ市ではオランダ兵が殺害される事件も起こり、すでに公表されている「イラク復興支援活動史」には「サマワの治安情勢は一時悪化した」と記されている。

上空から見たサマワ宿営地(防衛省提供)

10月22日にも宿営地へのロケット弾攻撃があり、同月31日にはロケット弾が鉄製のコンテナを貫通して土嚢に当たり、宿営地外へ飛び出している。年が明けて05年1月11日には早速、この年最初のロケット弾が宿営地に命中した。