戦争

日本人なら知っておくべき特攻の真実~右でもなく、左でもなく…

当事者の証言とデータから実像に迫る
神立 尚紀

「俺は死ぬ係じゃないから」


「上層部」や「司令部」を批判し、糾弾するのは簡単だし、俗耳にも入りやすい。陸海軍は73年前に消滅しているから、いくら悪口を言っても身に危険が及ぶ心配もない。しかし、「上層部」や「司令部」の「誰が」「どのように」命令をくだしたかまで掘り下げなければ、いつまでも批判の矛先が曖昧模糊としたままで終わってしまう。

海軍の特攻でいえば、その方針を最初に決めた軍令部第一部長(作戦担当)・中澤佑少将(のち中将)、第二部長(軍備担当)・黒島亀人大佐(のち少将)の存在は、もっと注目されてよい。昭和19(1944)年4月4日、黒島大佐は中澤少将に、人間魚雷(のちの「回天」)をふくむ各種特攻兵器の開発を提案、軍令部はこの案を基に、特攻兵器を開発するよう海軍省に要請した。

8月には人間爆弾(のちの「桜花」)の開発もはじまり、9月、海軍省は軍令部からの要望を受けて「海軍特攻部」を新設している。「回天」も「桜花」も、もとは現場の隊員の発案によるものだが、中澤、黒島の二人が同意しなければ、形になることはおそらくなかった。

 

中澤は、「策士」「切れ者」と評されるが、自ら主導したマリアナ沖海戦の大敗に見るように、作戦家としての能力には疑問符がつく。大西瀧治郎中将が日本を発つ前、東京・霞が関の軍令部を訪ね、「必要とあらば航空機による体当たり攻撃をかける」ことを軍令部総長・及川古志郎大将に上申し、認められたという、よく知られた話がある。

及川は、「ただし、けっして命令ではやらないように」と条件をつけたと伝えられる。だが、このことを、その場にいたかのように書き残した中澤は、実際にはその日、台湾に出張していて不在だったことがのちに判明している。

黒島は、昭和16(1941)年、聯合艦隊司令長官・山本五十六大将の腹心として、真珠湾攻撃作戦を事実上立案したことで知られるが、昭和17(1943)年、ミッドウェー海戦敗戦の責任の一端は彼にもある。この黒島が、特攻兵器の開発を中澤に提案した。

では、戦場の「上層部」はどうだったか。フィリピンで、大西中将の第一航空艦隊に続いて、福留繁中将率いる第二航空艦隊からも特攻を出すことになり、大西、福留両中将が一緒に特攻隊員を送り出したことがある。このときの特攻隊の生還者のなかには、

「大西中将と福留中将では、握手のときの手の握り方が全然違った。大西中将はじっと目を見て、頼んだぞと。それに対して福留中将は、握手もおざなりで、隊員と目を合わさないんですから」

という声がある(このシーンは現在、NHKのWebサイト、「戦争証言アーカイブス」の「日本ニュース」第241号―昭和20(1945)年1月―で見ることができる)。当事者ならではの実感のこもった感想だろう。昭和20年5月、軍令部次長に転じた大西中将は、最後まで徹底抗戦を呼号し、戦争終結を告げる天皇の玉音放送が流れた翌8月16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。

特攻で死なせた部下たちのことを思い、なるべく長く苦しんで死ぬようにと介錯を断っての最期だった。遺書には、特攻隊を指揮し、戦争継続を主張していた人物とは思えない冷静な筆致で、軽挙を戒め、若い世代に後事を託し、世界平和を願う言葉が書かれていた。

大西の最期については、多くの若者に「死」を命じたのだからという醒めた見方もあるだろう。しかし、特攻を命じ、生きながらえた将官に、大西のような責任の取り方をした者は一人もいなかった。

中澤佑少将は、台湾の高雄警備府参謀長に転出し、台湾から沖縄へ出撃する特攻作戦を指揮した。その中澤(終戦後、中将に進級)が、大西の自刃を聞き、

「俺は死ぬ係じゃないから」

と言い放ったのを、大西中将が軍令部に転じたのちも台湾に残った副官・門司親徳さんが耳にしている。門司さんは、

「大西中将は、『俺もあとから行くぞ』とか『お前たちだけを死なせはしない』といった、うわべだけの言葉を口にすることはけっしてなかった。しかし、特攻隊員の一人一人をじっと見つめて手を握る姿は、その人と一緒に自分も死ぬのだ、と決意しているかのようでした。

長官は一回一回自分も死にながら、特攻隊を送り出してたんだろうと思います。自刃したのは、特攻を命じた指揮官として当たり前の身の処し方だったのかもしれない。でも、その当たり前のことがなかなかできないものなんですね」

と回想する。

第一航空艦隊司令長官・大西瀧治郎中将(右)と、副官・門司親徳主計大尉。昭和20年5月13日、台湾にて、大西の軍令部への転出に際し て撮影された1枚

戦後、昭和21(1946)年から平成17(2005)年まで、特攻隊が最初に突入した10月25日に合わせ、東京・芝の寺にかつての軍令部総長や司令長官、司令部職員や元特攻隊員が集まり、「神風忌」と称する慰霊法要が営まれていた。

参列者の芳名帳には、及川古志郎、福留繁、寺岡謹平をはじめ、特攻に関わった「上層部」の指揮官たちの名前が、それぞれ生を終える直前まで残され、良心の呵責を垣間見ることができる。だが、中澤佑、黒島亀人という、最初に「特攻」を採用したはずの軍令部第一部長、第二部長の名はそこにはない。

戦後、かつて特攻を命じた側、命じられた側の関係者が60年間、ひそかに集っていた「神風忌」慰霊法要の参会者名簿