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相撲協会が「女人禁制」をいまだに徹底する理由

伝統的神事と近代スポーツの二面性
岡本 亮輔 プロフィール

大相撲の「神事と興行」という二面性

相撲についても、同様のプロセスを認めることができる。

多くの論者が指摘しているように、相撲には神事としての側面とスポーツ興行としての側面があるし、本場所と地方巡業ではその割合も変化する。

巡業であれば、明治期には有力者の私邸や各地の神社など、様々な場所で相撲が行われていた。

1884年には現在の千代田区の平河天神で相撲が行われ、勧進元と力士で大入りを祝う宴会が催された。土俵の上に酒肴を置き、力士が勧進元を胴上げし、その後は芸妓を招いての大宴会となった。

1892年には、当時の駐日メキシコ公使が両国回向院での大相撲を観戦して感動し、永田町の公使館で土俵入りを開催した。

当時の大横綱である西の海をはじめ、小錦、朝汐らの力士に加え、行事として木村庄之助らも参加し、各国の公使らの前で土俵入りを行っている。

神事と興行という二面性を備えた相撲は20世紀に入ると制度化されてゆく。

 

1907年、相撲協会の内規改正が行われた(朝日新聞1907年 5月14日朝刊)。改正された内規をまとめると以下のようになる。

・力士行司をはじめ、協会員は品行方正になる。道で同業者にあったら敬礼する。
・地方巡業の方針は、協会役員のうち最高給の関取の意見に従う。
・地方巡業で船に乗る際や旅館に泊まる際は、静粛に行動して粗暴な振る舞いはしない。
・場所中はもちろん、巡業中でも八百長はしない。
・場所中、病気などで欠勤するものは番付が下がる
・場所中、幕下は午後1時、幕内は午後2時から必ず土俵入りをする。土俵入りをしないと番付を下げる。
・地方巡業で土俵入りをサボると送迎をなくす。
・賭博をした者は見つけ次第除名にする。

注意喚起や禁止令が出されるのは、言うまでもなく、そうした行為が横行していたことを意味する。

当時の力士は道で他の力士とあっても挨拶せず、地方巡業の方針に従わず、船や旅館で暴れ、八百長をし、病欠し、博打をしていたようだ。そして、とにかく土俵入りが面倒臭いことなど、なんとなく雰囲気がつかめる。

さらに1909年6月、相撲のための常設館が竣工する。最初から「国技館」と名づけられたわけではない。建物の命名をめぐる議論はまとまらず、最終的に、開館委員会委員長の板垣退助が一番広い意味を持つ国技館を選定したのだ。

こうした近代化が徐々に大相撲を作り上げ、その過程で、前近代的なものが相撲の歴史伝統として語られるようになった。

相撲は国技というイメージの形成には、最大公約数的な名前を選定した板垣の命名が大きく影響している。

国技を行う場所だから国技館と名づけられたわけではなく、国技館で行われるから国技として語られるようになったのだ。