昨年12月の土曜日の朝、スマートフォンが着信を告げた。知人なら登録してあるので、その名が表示されるはずだが、見覚えのない番号が表示されている。一瞬、出るかほっとくか迷ったが出てみると、「あ、わたしです」と低い女性の声。
私への電話で「わたし」と名乗るのは妻くらいのはずで、その妻は数メートルのところにいる。さて、誰だろう。そんな、こちらの戸惑いを感じたのか、「加藤です」と名乗った。
その電話から、4ヵ月が過ぎて、1冊の本が出来上がった。
加藤登紀子著『運命の歌のジグソーパズル TOKIKO'S HISTORY SINCE 1943』(朝日新聞出版)である。
そう、この本の著者、加藤登紀子さんからの電話だったのだ。
この本は、4月21日に渋谷のオーチャードホールを皮切りに各地で開催されるコンサート『TOKIKO’S HISTORY 花はどこへ行った 加藤登紀子コンサート』の副読本であり、同時にリリースされるベストアルバム『ゴールデン☆ベスト TOKIKO'S HISTORY』の長い長い解説書でもあるが、逆に言えば、この本を原作としてコンサートが上演され、本の資料としてCDが出るとも言える、ひとりの歌手によるメディアミックスになっている。
どうして私がこのプロジェクトに加わることになったかは、まさに「人の縁」でしかない。5年近く前、共通の知人がいて加藤登紀子さんと知り合い、何度か会う機会があり、たまたま去年の秋から別の本の企画が進んでいて、私が加藤登紀子さんの周辺にいたという偶然から、この本を手伝うことになった。
「手伝った」といっても、ゴーストライターをしたのではない。原稿はすべてご本人が書いており、私の出番はなかったので、年表と人物事典を作り、巻末に載せてもらった。
その作業を通じて見えてきたのは、加藤登紀子の歌手としての歴史は日本のポピュラー音楽史と重なるだけでなく、世界のポピュラー音楽史とも重なるということだった。
加藤登紀子は2つの歴史を体現しているのだ。
以下、敬称略で書かせていただく。
加藤登紀子は1943年12月27日に、満州(現・中国東北部)ハルビンで生まれ、1歳8ヵ月で同地にて敗戦を迎えた。1946年秋に引き揚げた後は、京都で暮らし、中学1年の夏に父の仕事の都合で東京に移った。
都立駒場高校1年の年に60年安保闘争があり、高校生だったがデモに参加、これが人生最初のデモだった。
東京大学に入り、在学中の1965年に日本アマチュアシャンソンコンクールで優勝し、それがきっかけで、66年4月に歌手デビューした。
「歌謡曲」が全盛期へと向かっている時期で、当時はプロの作詞家と作曲家(その多くはレコード会社の専属だった)が作る歌しか、レコードとして発売されることはなかった。
加藤登紀子も最初期は、なかにし礼、水木かおる、藤原秀行、中島安敏、小林亜星といったプロの手による作品を歌っていた。
一方で、60年代後半になるとフォークソングの歴史も始まり、そこでは自分で作詞作曲をするシンガー・ソングライターが登場していた。
加藤登紀子の転機は1968年、いわゆる学生叛乱の年だった。