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不正・事件・犯罪

オウム・麻原逮捕を実現した「無名の検事」の死闘をご存知か

傍流検事~麻原逮捕までの57日

「あの人に、こんな大事件の指揮ができるのか?」――。検察官たちさえも初めは、そう囁いた。地下鉄サリン事件で日本中が騒然とする中、オウム真理教の闇に切り込んだ、検察官たち。その指揮官に抜擢された男の知られざる死闘を、検察・公安警察の取材を重ねてきた報道記者の竹内明氏が描き出す、特別連載第1回。

知られざる「六六会」の戦友たち

検察には派閥はないが、「事件閥」が存在する。事件捜査経験に基づくヒトの結束だ。ロッキード事件、リクルート事件など特捜部の大型事件を担当した者の結びつきは、退官した後も固い。

六六会」(ろくろくかい)は、「東京地方検察庁・オウム真理教事件特別捜査本部」の捜査に携わった検事たちの親睦組織だ。

彼らは互いを「戦友」と呼び、毎年6月初旬に集まる。会の名「六六」は、麻原彰晃こと松本智津夫を起訴した1995年6月6日を指し、集まった者たちは互いに近況を報告し、思い出話に花を咲かせる。

定例会は東京・平河町の鰻料理店で開かれる。座の中心に座るのは、最高裁判事を退官し、弁護士となった甲斐中辰夫だ。

[写真]現在は弁護士に転じた甲斐中辰夫氏(Photo by GettyImages)現在は弁護士に転じた甲斐中辰夫氏(Photo by GettyImages)

この男が23年前、オウム事件の捜査を取り仕切り、あの恐怖と混乱を収束させた、陰の立役者であったことは知られていない。

いま焦点は、オウム真理教の13人の死刑確定囚に対する刑の執行となっているが、事件捜査を検証した形跡はない。日本の捜査機関はなぜ地下鉄サリン事件発生を許してしまい、そうやってその後の危機を回避したのか。今回、筆者が検察捜査の内幕を取材し、独自に検証することにする。

 

「オウムに、先にやられた!」

事件発生の瞬間、東京地検次席検事だった甲斐中辰夫は自宅で出勤の準備をしていたという。その記憶はいまでも鮮明だ。

テレビの速報テロップが「霞ケ関駅でガスによると思われる負傷者発生」と伝えた瞬間、甲斐中は「サリンだ。オウムに先にやられた!」と、思わず叫んだ。地下鉄サリンは予測されていた事態だったのである。

[写真]地下鉄サリン事件後、霞ケ関駅構内の除染に投入された自衛隊員たち(Photo by GettyImages)地下鉄サリン事件後、霞ケ関駅構内の除染に投入された自衛隊員たち(Photo by GettyImages)

オウムに先手を打たれた最大の原因。それは、検察と警察の捜査方針の食い違いだったという。

警視庁は2月28日に起きた目黒公証役場事務長の監禁致死事件で、犯行に使われたレンタカーの運行前点検表からオウム真理教信者・松本剛の指紋を検出、捜索の準備を急ピッチで進めていた。だが、捜査を指揮する立場に東京地検が待ったをかけたのだ。

なぜ検察は待ったをかけたのか? 東京地検の捜査資料には、3月14日の東京地検と警視庁の協議についてこう書かれている。

<3月14日:教団施設に対する捜査実施の協議(松本剛を仮谷拉致監禁事件の犯人の一人と特定し、同容疑による都内の教団施設に限定した捜索を希望する警視庁に対して、全施設に対する捜索を指示…>

警視庁はオウムが化学兵器で反撃してくることを警戒し、まずは都内の教団施設だけを捜索する方針だった。だが、東京地検は「全国一斉捜索」を指示した。監禁致死事件の被疑者・松本剛の住民票登録地が、静岡県富士宮市にある教団本部だから捜索対象から外すわけにはいかないと判断したのだ。

捜査資料には続いてこう書かれている。

<3月16日:警視総監が教団の全施設に対して捜索を実施することを決断…>

東京地検の指示から警視総監が決断するまでに2日を要していたことを意味する。

捜索範囲が都内限定から全国一斉に広がれば、警察側の人員の再配置や下見に時間がかかる。検討の結果、一斉捜索は「3月20日」に設定されることになった。

日程はさらに遅れる。警察庁から、防護服などの資器材や部隊訓練が不足していると指摘が出たため、さらに2日間延期され、捜索予定は「3月22日」となった。

当時を振り返るとき、検事たちは「警察の判断の遅れが地下鉄サリン事件の発生を許したのだ」と批判する。

さらに1週間後には、警察庁長官・国松孝次が何者かに狙撃され、瀕死の重傷を負う。トップが撃たれるという大失態を演じた警察上層部は見るも無残に混乱した。

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