昭和38(1963)年の日本シリーズの前に対談で顔を合わせた稲尾(左)と長嶋
野球

「神様、仏様、稲尾様」を震撼させた長嶋茂雄の「野性の凄み」

「ミスタープロ野球」デビュー60周年

長嶋にやられた3連敗、やり返した4連勝

3月30日、今年もプロ野球シーズンが開幕した。新たなスター、ルーキーの活躍を心待ちにしているファンも多いだろう。

今から60年前、昭和33(1958)年のシーズンは、ひとりのルーキーが開幕の話題を独占していた。ゴールデンルーキー、のちにミスタープロ野球と呼ばれる長嶋茂雄である。

ゴールデンルーキーといわれても、当時を知らない世代にはピンとこないかもしれない。何ゆえ長嶋は「黄金の新人」と呼ばれたのか。

入団1年目から本塁打王〈29本〉と打点王(92)を獲得し、打率(305)は2位。あわや三冠王という成績で新人王を獲得している。盗塁も37を記録しているので、もし、9月の広島戦で一塁を踏み忘れてホームランが取り消されるというミスがなければ、新人でトリプルスリーを達成していたのだ。

だが、この年の長嶋は、卓越した技量と華々しい記録だけによって、プロ野球史上に圧倒的な存在感を示しているのではない。

 

「私が慶應大学に入学した年に、長嶋さんが立教の4年生で、当時の東京六大学のホームラン記録(8本)を更新しました。この年までは、プロ野球より六大学のほうが人気があり、1試合あたりの観客数もずっと多かったんです。そこで圧倒的な人気を誇った長嶋さんが、翌年六大学ファンを引き連れるようにして巨人に入団したことで、初めてプロ野球の1試合あたりの観客数が六大学を上回ったんですよ」(故平光清氏。元プロ野球審判員、慶應義塾大学野球部マネジャー)

昭和33(1958)年、プロ野球は、明治時代から日本の野球界を牽引してきた東京六大学を、人気の面でも上回った。その起爆剤となったのは、たった一人の選手、しかも新人選手だったのだ。

立教大学4年の秋のシーズン。本塁打記録を更新した長嶋

そして、このシーズンを締めくくる日本シリーズも劇的な結末となった。3年連続で水原茂監督率いる読売ジャイアンツと三原脩監督率いる西鉄ライオンズの対決となったシリーズは、巨人3連勝のあと、西鉄が4連勝するという劇的な展開で西鉄が3連覇を果たす。

「打撃の神様」と言われ、巨人の看板として活躍した川上哲治もすでに選手としては晩年。巨人の主砲として4番に座っていたのは、ゴールデンルーキー長嶋茂雄だった。

一方、長嶋を迎え撃つ西鉄のエースは入団3年目の稲尾和久だ。昭和31(1956)年にデビューして、21勝6敗、防御率1.06で新人王。その後2年連続で最多勝投手となり、ここまでのわずか3年間で89勝を積み上げていた。そして、この年の日本シリーズ、第2戦以外の6試合に登板し、西鉄4勝すべての勝ち投手となった稲尾は、熱狂するファンから「神様、仏様、稲尾様」と崇められることになる。

シリーズMVPを獲得した稲尾

だが、稲尾は決して期待されて入団したわけではなかった。稲尾はいう。

「当時としては大金の50万円も契約金もらって意気揚々とキャンプに行ったら、連日バッティングピッチャーですよ。しかも一日500球以上は投げさせられる。おかしいなと思って、小倉高校から同期で入団した畑(隆幸)に聞いたら、やつの契約金は800万円だという。がっくりきたね。中西(太)さんや豊田(泰光)さんから『手動式練習機』と呼ばれて、まるで生身のピッチングマシーンですよ」

ところが、そのキャンプの打撃練習で、稲尾の絶妙のコントロールに目をつけた主軸打者の豊田と中西が、「稲尾起用」を三原脩監督に進言したことによって、開幕早々に一軍でチャンスをもらい、一気に才能を花開かせたのだ。

その事実を踏まえたうえでの疑問を抱えていた。
「バッティング投手から這い上がった21歳の雑草エース・稲尾和久は、華々しくデビューした1歳年上のゴールデンルーキー・長嶋茂雄をどう思っていたのか? このシリーズでは、長嶋何するものぞという対抗心が沸々と燃えていたのではないか」

稲尾に直接会うチャンスを得た平成15(2003)年2月、福岡市内のホテルのティールームで、この疑問をぶつけてみた。

「よくぞ、聞いてくれました(笑)。今まで誰もそのことを聞いてくれなかったんだよ。そりゃあ、意識しましたよ。長嶋さんには絶対に打たれたくなかった。結局、あのシリーズは、長嶋さんにやられた3連敗、そしてやり返した4連勝だったよ」

どういうことなのだろう?

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