医療・健康・食

あなたは、親を「安楽死」させる覚悟がありますか

「その時」は突然やってくる
佐伯 順子 プロフィール

後悔しない終末医療のために

長年、医学部教養教育にたずさわられてきたある女性の先生が、医学部の教養教育の衰退傾向はよくないと指摘しておられた。医学部が命や家族の多様性についての想像力がなく、医療技術者という意味しかもたない、いわば「みとりロボット」養成機関になってしまったら、人間が医療をする意味もない。

「医は仁術」であるならば、現代社会を生きる医師を養成する医学部、ことに、終末治療の意思決定に深くかかわる医師には、人間の生と死について深い洞察を与える哲学や文学といった人文学、人生経験が浅い若い医学生にも、家族のダイバーシティを認識させる、家族社会学、ジェンダー論の科目を必修とすべきではないかと考える。

職業柄、患者一人ひとりの死にいちいち感情移入できないことは、親戚に医師が多い筆者としても理解できなくはない。

しかし、開業医をしていた祖父には、経済的に苦しい患者さんの往診時に、おにぎりを持っていくようなやさしさがあったし、医学部進学コースで受験勉強に励み、“蛍雪時代”を共にすごした親友に医師が少なくない筆者としても、「みとりロボット」のような、血も涙も感じられない現代の一部医師の“空気感”には違和感を禁じ得ない。

 

終末医療は“本人の意思が第一”ととらえがちな現代日本の論調に対して、「仮に意識がなくなったとして、僕をどのくらいもたせようとするかは、生きている側の判断」「日本で、問われるのは周囲がどのくらい納得したか」との、冒頭対談における養老氏の発言に、親には少しでも長く生きていてほしいと切実に望んだ私は救われた。

そもそも、“本人の意思”なるものさえ、一部家族によって捏造されたり、“本人の意思”とは裏腹に、見せ方がうまい家族成員の意見が通ってしまったりしかねないのだ。

「家族」の事情は決して一様ではなく、いわゆる「家族」に限らず、本人とその周辺の人々が背負っている歴史や「親密性」の度合いも様々である。

延命治療を望むにせよ望まないにせよ、その要望を医師に述べる家族成員や周囲の人の発言には、その人々にしかない何十年もの歴史を背負った万感の思いがこめられている。

特に戦前生まれの女性は、教育を受けたくても受けられなかった場合もあり、平和な時代に少しでも長く生きて、やり残したことをやりたい、いくつになっても人生これから、と切実に思う女性も少なくない。

血縁家族だからといって、決して本当に患者のためを思って発言しているとは限らない。

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極端に言えば、遺産狙いで、そろそろ死んでもらってもいいか、という考えの親族もいないとは限らないわけであるし、終末医療に後悔を残してしまうと、かけがえのない親族、かけがえのない人を失うショックで打ちひしがれる「家族」または患者周囲の人々の精神的傷が増幅され、その心の傷は一生癒えないどころか、時間とともに深くなってしまう。

何より、独善的価値観に基づく終末医療は、生き延びようと文字通り必死の努力をみせた患者本人の命に対する冒涜であり、悲痛な死の経験が、いっそう悲惨なものになりかねない。

『八年越しの花嫁』のように奇跡的な快復例もあるのだから、拙速にではなく、できうるかぎり慎重に、かつ、患者または本人の命運を決定するにもっともふさわしい当事者が結論を下すことこそが、後悔しない終末医療には必須である。