司法

「アーチャリー」と呼ばれたわたしが、今伝えたいこと

オウム裁判は結審した。では真実は?
松本 麗華 プロフィール

東京拘置所の記録によると、父にはこの頃から大声を発するなどの状態が見られ、「保護房」に入れられることが多くなりました。保護房では、革手錠をつけたまま食事や排泄をさせられ、寝るときもそのままだといいます。

この革手錠については、2001年、名古屋の刑務所で、受刑者の方が亡くなる事件が発生し、大きく報道されましたので、ご存知の方もいらっしゃるかもしれません。

この保護房の中で、父は壁に寄りかかりぶつぶつと独り言を言ったり、耳に金属片が入っていると訴えたりしていたとされています。拘置所の記録からみても「正常」とはいえません。

当時の父に必要だったのは、本当に「保護房に入れること」だったのか。わたしは、適切な精神科的治療を施すことではなかったのかと思っています。

 

審理する前から期限を切った裁判所

では、実際に裁判所は、父にどう対処したのでしょうか。

父は法廷で、日本語として意味が通らない発言をしていましたが、やがて何も語れなくなっていきました。排泄をコントロールする力を失い、オムツをつけられ法廷に連れて来られるようになりました。

端から見ても、明らかに病状は悪化していったようです。裁判官が気づかなかったわけはありません。

父の裁判で、初公判から2002年まで裁判長を担当したのは、阿部文洋氏です。父の主任弁護人を務められた安田好弘先生は、ご著書『生きるという権利』の中で、国選弁護人がそろう前の段階で、阿部氏が、

「この事件は世界に注目されている事件である。できるだけ速やかに裁判を終えたい。裁判所としては、5年以内に判決を出したいと考えているので協力をお願いしたい」

と言ったことを指摘されています。

また、まだすべての事件が起訴されておらず、取調中の事件もあった段階で、2ヵ月以内に第1回公判を開くことを要求したりするなど、刻限を切って訴訟を進めようとする阿部氏の様子について記されています。

本来、裁判所は公平・中立な機関であり、弁護人が闘う相手は検察であるにもかかわらず、父の弁護人は検察だけではなく裁判所との闘いも強いられたのです。

阿部文洋氏は、「裁判官が見抜いた正気」(『文藝春秋』2015年1月号)という記事の中で、父の裁判について語っています。1997年4月、父は英語で不規則発言をしました。そのことについて阿部氏は、

<翌日の新聞では、事件のご遺族の方から英語で喋らせたことを批判されました。ただ、私は、検察官も弁護人も、そして全国民も、彼がどんな手段を使うにせよ、何を話すか聞きたいはずだと思ったのです>

と説明しています。裁判から17年9ヵ月経ってなお、こうした説明をしないといけないほどに、社会からの批判を意識していたのでしょう。

しかし、今から考えると、このときすでに、父は適切にしゃべる能力を失っていました。英語で話をしたのは、決してふざけていた訳ではなく、拘禁症状だったのだとわかります。その後父の症状は重くなっていき、裁判所は、父が指示に従わないとして幾度も退廷を命じ、被告人不在のままでも裁判が続行されました。

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