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本当に働いていたの? 父の過去を、同僚は誰も覚えていなかった…

「家族をさがす旅」【8】

現役証券マンにして作家の町田哲也氏が、実体験をもとにつづるノンフィクション・ノベル『家族をさがす旅』。

​一時は生死をさまよい、入院中の78歳の父。彼は1960年代の岩波映画でカメラマンとして働いていたことを、ひそかに誇りにしていた。

知らなかった父の過去を知るべく、かつての同僚たちを訪ね歩く「ぼく」。しかし、誰に話を聞いても、父のことを覚えているという答えは返ってこなかった。

連載第1回→「危篤の父が証券マンのぼくに隠していた『もうひとつの家族と人生』」

作品目録にも名前がない

早くも手持ちのカードが尽きかけていた。40年も前のことだ。調べようとすること自体が無謀なのかもしれなかった。

それから何日かは、岩波映画のことを追いかける毎日だった。インターネットで検索しては、会社での業務を終えると図書館に向かう。調布市立図書館には映画の特設コーナーがあり、膨大な資料が残されていた。

このとき調べた資料に父のことが記されていたわけではなかったが、いくつか有用な情報を得ることができた。

一つ目は、岩波内部の資料に作品目録があることだった。今までに岩波映画が関与した、すべての作品の記録が残されているという。二つ目は、岩波映画の出身者たちが盛んに同窓会を開催しているということだった。

ぼくは、市東宏志という岩波OBに連絡してみた。市東氏は個人でブログを運営しており、かつて岩波映画で演出していたときのことをよく書いていた。ぼくが気を留めたのは、ブログのなかで当時の作品目録や同窓会のことに触れられていたからだった。

 

ぼくが事情を説明すると、市東氏は快く質問に答えてくれた。

「作品目録をお貸しすることは問題ありませんが、お話を伺っていると、ご期待に沿うものかどうかは疑わしいですね」

「それはどういうことですか? 関係者の名前が載っているのではないのですか?」

「いちおう載っているのですが、メインの担当者だけなのです」

「ではセカンドやサードのカメラマンは?」

「ないですね。撮影助手も載ってませんから。そこまで詳しいものは、完成台本を見ないとわからないかもしれないです」

セカンドやサードというのは、撮影助手をサポートする二番手、三番手のアシスタントのことだ。作品目録は、どうやらぼくが期待したようなものではないようだ。

もし助けになるのであればと、作品目録を送ってもらったうえに、1960年代の岩波映画をよく知る友人を紹介してもらえることになった。岩波映画の作品のなかに、父の軌跡をたどるしかないようだった。

当時は「岩波映画の黄金期」だった

父が岩波映画に出入りするようになったのは、昭和34年(1959年)だった。

この年はNHK教育テレビが放送を開始し、NET日本教育テレビ(現テレビ朝日)とフジテレビが開局するなど、テレビが拡大しはじめる時期にあたる。NHKテレビの契約数がはじめて100万人を突破する一方で、前年には映画人口が史上最高の12億人を超えていた。

岩波の主要な作品では、『新しい製鉄所』(川崎製鉄委託)が教育映画祭で最高賞(一般教養部門)を受賞したほか、『海に築く製鉄所』(八幡製鉄委託)が1961年ニューヨーク産業映画祭のグランプリを受賞している。

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この頃のPR映画に鉄鋼業界からの委託が多かったのは、高度成長期における日本の産業構造を反映している。産業の技術革新、経営や生産の合理化の中核にあったのが鉄鋼業界であり、株主や一般投資家に対する企業PRという点でも最前線に位置していた。

この頃の父を見た記憶があるという数少ない先輩カメラマンに、川島安信がいる。

川島氏は1933年(昭和8年)生まれ。明治大学を卒業して56年に岩波映画に入社し、88年のリストラと同時に退職している。55歳で希望退職に応じたので、ほぼ会社員人生を岩波映画で過ごしたといってよい。

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