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企業・経営 ラグビー 週刊現代

神戸製鋼ラガーマンが32歳で転職して社長に上り詰めるまで

大和ハウス・芳井敬一 社長の人生訓

大事なときにいつも怪我、事故……。苦しいときほど、それでも前のめりで突っ走ってきた。ラガーマンもサラリーマンも山あり谷あり。いくつもの偶然がなければ、この椅子に座ることはなかった。

昼間は仕事、夜はラグビー

それは1988年8月、雨の降る夏の暑い日だった。仕事帰りに車を運転していたその男は、濡れた路面を走ってくる後続車から追突された。自身の車も前の車に突っ込むほどの衝撃。グシャッと音が鳴る。男は椎間板が潰れ、体の左半身に力が入らない。

後で医師に聞かされたところでは、当たる場所があと少しずれていたら半身麻痺になっていたというほどの大怪我だった。

当時、男は神戸製鋼グループで働き、建機事業のアメリカ進出のプロジェクトメンバーに選ばれた矢先のことだった。

男はもともと名門ラグビー部の神戸製鋼のラガーマンでもあり、チームは平尾誠二が率いて、のちに全国大会7連覇を達成する黄金期を迎えようとしていた。

入院してから5ヵ月も寝たきりを強いられ、天井のシミを数える日々。一緒に汗を流したラグビー仲間たちが華々しく活躍する中、男は日々筋肉が落ちていく身体を持て余しながら頭を抱えた。いったいオレはこれからどう生きて行けばいいのだろうか――。

それから29年が経った昨年9月のこと。同じく暑い夏の日だった。

「逃げるなよ」

会長の樋口武男氏から迫られると、「わかりました」

取締役専務執行役員だった芳井敬一氏は即答していた。

『大和ハウス工業』の中興の祖である樋口氏から10代目社長に指名されたこの芳井氏こそ、交通事故に遭って人生のどん底にいた男その人である。

神戸製鋼のラガーマンだった芳井氏はあれから大和ハウス工業に転じて、社長に抜擢されるほどに出世していたのである。異例の「叩き上げ社長」誕生の瞬間だった。

あの日からいったいなにがあったのか。

芳井氏本人が明かす。

「あの事故が人生の大きな転機になりました。当時の僕はラグビー選手としては見切りをつけて仕事に打ちこもうとしていたところ、海外プロジェクトのメンバーに選ばれて浮かれていたんです。

これからは海外を飛び回るスマートなビジネスマンになるんだって、ドラマの主人公になったような気分になっていた。それが怪我をして病院で寝ていると、冷静になってきてね。自分はなにを浮かれていたんだろう、って」

 

芳井氏がもともとラグビーを始めたのは大阪府立大和川高校(現・大阪府教育センター附属高校)で、大阪市代表チームのキャプテンにも抜擢された。

中央大学文学部に進学してからもラグビーに熱中し、3年生からレギュラーに定着。大学卒業後、神戸製鋼ラグビー部の門を叩いた。

「当時の神戸製鋼では仕事とラグビーの両立が求められていたため、昼間は仕事、夜になるとナイターで練習。全国から集まるすごい選手たちと一緒に週4日汗を流すのが楽しくてね。

学生時代にはぼろ負けしていた法政大学に練習試合に行っても勝ってしまう。しかも、そんなすごいセンスのある選手たちが日々練習で並々ならぬ努力をしているさまを見て、『この人らすごいわ』と圧倒されました」

そもそも芳井氏は、大学卒業後はラグビーをやめて小学校の教師になるつもりだった。しかし、大学4年生の夏合宿で肩を怪我したまま最後のシーズンを終えたのが、不完全燃焼だった。

「それでどうしてもラグビーを続けたくて、社会人ラグビーの門を叩いたんです。ただ、神戸製鋼のすごい選手たちに囲まれながらラグビーに打ちこんだら、完全に燃え尽きることができてね。

それで3年ほどでラグビーには見切りをつけて、そこからは仕事に精を出そうと思ったんです」

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