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不正・事件・犯罪 週刊現代

裁判員制度はやっぱり裁判官の「責任逃れ」が目的だった

建て前を信じてはいけません

「国民に開かれた司法」。裁判員制度は、そんな建て前の下に導入された。しかし、その根本には、「国民が参加していれば文句は言われないだろう」という思いが見える。制度の裏側に隠されたものとは。

「ミスター司法行政」の暗躍

「再審無罪ラッシュ」といわれるほど、確定死刑囚への無罪判決が相次ぎ、裁判所への厳しい批判が高まっていた1985年11月、「ミスター司法行政」と異名を取った矢口洪一が、第11代最高裁長官に就任した。

矢口は、最高裁人事局長や事務総長など中枢部門を歩き続け、44年に及ぶ裁判官人生のなかで法廷での審理に携わったのはわずか8年。典型的な「司法行政官僚」だった。

強烈な個性に見合うだけの知性と行動力を兼ね備えていた矢口は、組織を牛耳り、意に沿わない裁判官は容赦なく人事で冷遇した。多くの裁判官から、独善的で強権的と恐れられたが、その分、強いリーダーシップを発揮した。

 

政治学者の御厨貴が編集した『矢口洪一 オーラル・ヒストリー』のなかで、矢口は語っている。「(裁判官人生で)やらなければいけないけれど、やるのを先延ばししようということはなかった」

その矢口が、長官時代、もっとも力を注いだのが「陪審制度」の導入だった。

「陪審制」は、米国、英国などで採用されている裁判制度で、裁判官1人と市民から選ばれた陪審員10人前後で裁判体を構成。

有罪か無罪かの判断は、陪審員だけで行い、裁判官は法律解釈のアドバイスをし、有罪と認定された場合に量刑を決める制度である。

これに対し、現在の「裁判員制度」は、3人の裁判官と一般市民から選任された6人の裁判員で構成される。有罪、無罪の判断は全員で合議したのち、過半数の意見によるが、そこに裁判官が1人以上入っていないと成立しない。

つまり、裁判員の意見だけでは有罪にできないという仕組みだ。量刑もまた同じルールのもと決定される。

矢口が『最高裁判所とともに』のなかで述べているように、「陪審制度」の導入を唱えたのは、「法律技術の専門家が必ずしも良き裁判官ではない」「良き法律家が良き裁判官であるためには、その前に良き常識人、良き社会人でなければならない」という理由からだった。

元札幌高裁裁判長で北海道大学法学部教授だった渡部保夫の言葉を借りれば、陪審員は、職業裁判官と違って、証拠の評価や事実に関する洞察力について過大な自信を持つことはない。

そのため「本当に間違いない」と考えた時にしか有罪の評決をしない傾向がある。「誤判」が生まれる確率はグッと減るというわけだ。

常々、矢口は「司法が一流扱いされていなかった」と嘆き、「あらゆることに対し、もっと闘わなければいけなかった。立法・行政と闘わなければいけなかった」と語っていた。

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