この国はもう復興を諦めた? 政府文書から見えてくる「福島の未来」

復興の成果を自画自賛しているが…
山下 祐介 プロフィール

いやこれらが被災地・被災者自身が望んだものであり、人々が苦心して主体的に取り組んでやり遂げるようなものなら何も異論はないのだ。

だがすべては国主導、中央主導で進み、復興のための事業に多くの税金が投入されるが、その成果は被災者ではない誰かに持っていかれて、被災地には不良債権化する巨大な施設だけが残る――私にはどうもそんな未来しか見えないのだ。

そしてすでに触れたように、被災者の支援も徐々に世の中から落ちこぼれた敗者への支援にかわってきている。

この状態を作り出したのは原発事故であったにもかかわらず、被災者政策は「かわいそうな被災者のために国が支援してあげましょう」というものに変化しつつある。

しかも政府の文書によれば、「住民の方々が復興の進展を実感できるようにするために」(原子力災害からの福島復興の加速のための基本方針、5頁)、さらなる対策を充実させて、「心の復興」(「復興・創生期間」における東日本大震災からの復興の基本方針、3頁など)をはたしてもらうのだという。

原発事故によってふつうに暮らしていた人を復興弱者へと落とし込んだ上で(津波被災地に関していえば、政策さえもう少ししっかりしていれば、それなりの復興をむかえられたかもしれない人を復興弱者へと落とし込んだ上で)、「復興は進んでいるのだから、それを「心の復興」で実感せよ」と、そういう話になっている。

〔PHOTO〕gettyimages

しかしながらまた他方で、「福島第一原発の廃止措置に向けては、安全確保を大前提に、長期的にそれぞれのリスクが確実に下がるよう、優先順位を下げていく」(「原子力災害からの福島復興の加速のための基本方針」、20頁)のだといい、廃炉にともなう様々なリスクがあの場所には長期にわたって存在することを認めている。

放射性廃棄物の処分に関しても「中間貯蔵施設」を現地につくりながら、その最終的な行き先が決まっていないことを認めており(同5頁)、現実には容易に帰ることのでない場所であることを十分にわかった上でこれらの文書は作成されているのだ。

しかもこうして一方的な内容を被災者に(つまりは国民にも)突きつけながら、「双方向のコミュニケーションを強化し、信頼関係の強化につなげる」とまで言い切るふてぶてしさ(「原子力災害からの福島復興の加速のための基本方針について」平成28年12月、22頁)。

平成25年度までの文書にはこんな内容はなかった。

 

国の責任が風化している?

おそらくこの間に欠けてしまったのは、この事故に関する国の責任なのだろう。

振りかえればちょうど1年前の平成29年3月、私はあるテレビ番組で今村雅弘復興大臣(当時)にお会いし、こんなふうに現状を説明されたのを思い出す。「時間がない。恐いのは風化だ。」(拙稿「復興相辞任のウラにある「本当の問題」」を参照)

いま、この言葉の重大な意味がわかってきた気がする。このとき私は、風化は国民世論の関心のことだと思っていた。

だがどうもそうではないのだ。原発事故・東日本大震災についての関心の風化は、もしかすると政治の中に起きているのだ。そういうことなのではないか。

たしかにもはやこの震災からの復興は、政治マターとしてうまみのないものになっている。それは紛れもない現実だろう。

「そうではない」という答えを期待しながら、あえてこう問おう。

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