Photo by iStock
政治政策

日本を150年間支配し続けてきた、アメリカの「不平等条約」の正体

祝賀に酔っている場合ではない

「明治精神」という言葉への違和感

二月に『明治維新という過ち』の続編として『列強の侵略を防いだ幕臣たち』を上梓させていただいたところ、予想外のスピーディで大きな反応をいただいた。

昨年以来、各地で講演をさせていただく機会が増えているが、そこで参加者から頂戴する生の反応と重ねて考えると、拙著に対する鋭敏な反応は、多くの方が「時代に対する危機感」とも呼ぶべき気持ちを抱いておられる一つの証ではないかと考えている。

私の主張に対する賛否は当然分かれるものとして、手にとっていただいたことに感謝と敬意を表すると共に、この国はまだ大丈夫なのではないかという希望と言ってもいい感情が湧いてくることを否定できない。

というのも、正確な日時を記録していないが、現政権の中核を成す政治家が記者団に対して「明治精神」という言葉を使い、明治精神へ思いを馳せることの意義をアピールする主旨の発言を行う様のテレビ報道に接し、慄然としたばかりであったからである。

 

言うまでもなくこの発言は、現政権が執着している「明治(維新)百五十年」という祝賀運動に関するもので、「明治精神への回帰」の重要性を説いたものと聞くことができるのだ。

「明治精神への回帰」……いつか聞いたことがないか。そうなのだ、戦前=昭和前期に燃え盛った「昭和維新」運動を繰り広げた軍人や国粋主義者が掲げた狂気のキャッチフレーズそのままなのである。

あの時、「天誅」の名の下に何人の反軍部の政治家を中心とした要人が暗殺されたか。よもや知らぬとは言えないはずだ。

「五・一五事件」「二・二六事件」は、その代表的な昭和のテロ事件である。この種の出来事は、歴史の部類に入らないほど「つい先頃」の厳然たる事実であるが、選挙権年齢を引き下げ、自国の歴史など知らない平成の若者が政治参加することは、現政権にとって実に都合のいいことであろう。

私は、俗にいう「明治維新」というものは、私たちの民族にとって過ちではなかったかという切実な問いかけを一貫して行ってきた。そして、その時以降今日に至るまでの史実としての出来事を、時の政権にとって都合のいいことも悪いことも、逆に政権に対峙する勢力にとって都合のいいことも悪いことも、すべて一度作為なく白日の下に曝して検証する必要があることを繰り返し訴えてきた。

現政権中枢の昨今の発言を聞いていると、この作業を急ぐ必要のあることを痛感せざるを得ない。

凡そどの国、どの民族においても、百年も経てば自国の歴史を自ら検証するものである。ひとり維新クーデター以降の「明治近代」を生きる日本人のみが、敗戦という惨禍を体験してもなおこれを行っていないのだ。

共産中国になる前の中国人は、「歴史の評価は百年を経ないと定まらないものだ」
という主旨のことを、普通に語っていたものである。

また、今日のドイツが世界でもっとも信頼される国の一つとして国際社会で重きを成しているのも、彼らが厳しく自らの歴史を検証したことを、旧敵国を含めて世界が認めているからに他ならない。

歴史を検証しないことが、今日の私たちに何をもたらしているか。

ここでは、あくまで一つの検証切り口の事例として日米交渉の歴史にスポットを当て、検証を行ってこなかった不幸を浮き彫りにしてみたい。

日米交渉とは、我が国にとっては対外交渉の代表的なものである。そこで、徳川幕府による第一回日米交渉、明治新政府の岩倉使節団による日米交渉、そして、平成をも含む戦後日本を支配している日米地位協定の三つを対象として、そのポイントを整理したい。

どれ一つを語るについても、書籍一巻を以てしても事足りるものではない。従って、ここでは文字通りそのポイントに言及するのみで精一杯であることにご理解を賜りたい。

最初の日米交渉とは、ペリー来航時に行われた徳川幕府と米国海軍提督マシュー・ペリーの交渉である。

周知の通り、ペリーは二度に渡って来航しているが、公式に日米交渉がもたれたのはペリー再来航時、即ち、嘉永七(1854)年のことである。日本側交渉団(応接掛)は、全権林大学頭以下五名であった。

林大学頭とは、幕府の官学であった朱子学を正しく継承することを担っていた林羅山を始祖とする林家第十一代林復斎のことで、この日米交渉の直前とも言うべき前年に林大学頭家の家督を継いだばかりであった。

“鎖国”などという施策は採っていなかったものの、幕府が閉鎖的な対外方針を堅持してきたことは事実であり、従って、幕府には外交を専門に扱う組織は存在しない。当然、今日でいう専任の外交官もいないのだ。林復斎は学問ができる、だからお前がやれ、といった感じで全権に指名されただけであった。

ところが、この林大学頭が軍人ペリーを相手にして見事な外交交渉を展開し、ペリーが最大の目的としていた通商要求を取り下げざるを得ないほど押し気味の交渉をやってみせたのである。

凡そ外交という国家行動を考える時、軍事力という背景をもたない外交交渉というものは成立しない。しかし、幕府はまだ海軍力をもっていない。一方のペリーは、その海軍力を背景として恫喝的な交渉を仕掛けている。

例えば、ペリーは対メキシコ戦争を引き合いに出し、具体的に「戦争」という言葉を使って恫喝したが、これに対して林は、まず、

「戦争もあり得るだろう」

と堂々と受止めてから、冷静に反論する。

結局、この交渉によって締結された日米和親条約(神奈川条約)は、アメリカ側が主張した二十四カ条案は簡略に十二カ条に圧縮され、幕府は漂流民保護と薪水給与のために箱館、下田二港を開港したが、アメリカの治外法権は一切認めなかったのである。

新生・ブルーバックス誕生!