東日本大震災で流された大量の「戸籍」が鳴らす警鐘

世界に冠たる戸籍制度はあまりに脆い…
井戸 まさえ プロフィール

「戸籍」がない…怒号が飛び交う避難所

佐藤さんは自宅からの交通手段が確保できるようになった震災から3日後の14日、対策本部が置かれていた町総合体育館に出勤した。

たくさんの人々が体育館のロビーや廊下に毛布にくるまってうずくまっていた。

死亡届と火葬許可書の発行業務を開始したのは3月16日。震災から5日が経っていた。電気も水道も復旧しておらず、事務室に自家発電で稼働していた1台のコピー機とボールペン数本と、メモ用紙数枚しかなかった。

戸籍も住民貴重台帳システムも全て流失し、死亡者の戸籍確認はもちろん不可能。南三陸町に1ヵ所あった火葬場も使用できない状況で行方不明者の届出受付と平行して身元が確認ができた人の死亡届の受領と火葬許可証の発行が始まる。

自家発電のため最小限の灯りしかなく、午後7時になると真っ暗。懐中電灯とろうそくの灯りの中で検案書をコピーしただけの特別許可証(これは厚生労働省からの通知により火葬許可書に代わるものとしていた)を発行した。

体育館に集まった遺族はガソリン不足を訴え、遺体の悲惨さを訴え、いち早く火葬してほしいと訴える。怒号。修羅場だった。

「戸籍」がないなかで手続きは進むが、死亡届の先の相続他はどう考えても「戸籍」がないと進まない。

せめて管轄法務局の気仙沼支局で管理されている「副本」があればと祈るような気持ちでいるが、気仙沼支局からは「支局保存の副本データも滅失した」との連絡があった。

佐藤さんたちは絶望的な気持ちを持ちながらも、職務を遂行するしかなかった。

 

「副本」という命綱の行方

一方、当時仙台から、南三陸町を管轄している法務局の気仙沼支局に赴任していた本澤総務係長も一刻も早く出勤したいと思っていた。

気仙沼支局も津波を受け本澤さんたち職員は屋上に避難し、ヘリコプターで救助された。津波を想定した避難訓練を行なっていたが、前回のチリ地震では1階がやられたという経験値とともに、当時の想定では2階以上は大丈夫だと思われていた。

本澤さんたちが普段勤務していたのは2階で、そこが浸水したことに衝撃を受けていた。

南三陸、女川で戸籍の原本が流されたことを聞いて、3階に置いた金庫に残った戸籍の副本、DATテープが命綱になることを悟った。確かめに行きたい。しかし道路は寸断されていて、物理的な状況がそれを許さなかった。

3月21日、道路が開通すると聞いて、さっそく気仙沼まで仙台から向かった。

庁舎は悲惨な状況だった。おそるおそる3階にあがると、金庫はあった。急いで開けると、DATテープは無傷のまま保管されていた。

無我夢中で、持っていったバッグの中にともかくそこにあったデータを全部入れ込む。大丈夫とは思いながらも、再製できるか確認するまでは安心できない。

仙台に戻って、データが再生できたと聞いた時に安堵は、なんとも言えないものだった。

「3階倉庫の一番上に保管していた副本データが無事見つかった」

法務局気仙沼支局長が南三陸町に来庁し、報告した。南三陸町では自衛隊に車両の手配を依頼しようと話していた矢先だった。

戸籍の原本も副本もなければ、戸籍を再製するためには法務局気仙沼支局に保管されていた昭和22年からの大量の紙ベースの届出書を仙台本局に搬送して、届出書の入力という気の遠くなるような作業をして、データ再製をするしかないと思っていたのである。

佐藤さんはうれしさと安心で涙が止まらなかったという。

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