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不正・事件・犯罪 週刊現代

地下鉄サリン事件の「誰も知らない物語」を描き出した村上春樹の凄味

滝口悠生「わが人生最高の10冊」

酒で始まり酒に終わる小説

高校卒業後、しばらくアルバイト生活を送っていましたが、小説の勉強をしたくて大学に入りました。今回選んだのはその当時、僕が20歳前後のころに読んだ本です。

水上瀧太郎という作家のことは全く知らなかったんですが、『大阪の宿』はたまたま古本屋で手にした本です。

大正時代、大阪に転勤になった三田という男が暮らした下宿屋の様子を綴った長編小説です。隣の部屋でハデな痴話喧嘩が起きたり、宿の女中が駆け落ちしても主人公は物静かな観察者の立場にいる。面白いのは酒で話が動き、酒で話が収まるところです。

うわばみというアダ名を持つ酒豪の芸者さんが登場するんですが、三田が得意先の会社を接待している場に突然、彼女が酔っぱらって現れるシーンがあります。

そこでうわばみは三田の得意先の男に酒を浴びせる騒動を起こしてしまう。そのことが原因で三田は東京に戻されることになり、大阪で付き合いがあった人間が集まって彼を送る宴会を開きます。

結局みんなで酒を酌み交わし、話が終わるんですが、この宴会がすごく印象的。僕も自分の小説で宴会のシーンを書くことが多く、この『大阪の宿』の影響なのかもしれません。

沢木耕太郎さんの旅行記『深夜特急』は、インドのデリーから始まります。でも、そのデリーの安宿にずっと根を張るんじゃないかと思えるぐらいゆっくりと、そして、無為に時間を過ごしている。そのだるい時間の流れ方が魅力です(笑)。

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その土地の食べ物や生活習慣に最初は違和感を抱いても、だんだん慣れていくんですね。砂糖がたくさん入ったチャイを初めて口にしたときは甘すぎると感じたのが、そのうちその味に慣れて、飲むのが日課になっていく。美味しそうだなぁと思った記憶があります。

『深夜特急』の旅はバスを乗り継いで時間をかけて移動します。僕は、いまでこそ新幹線にも乗るようになりましたが、移動時間が短い旅は旅情が失われて、少しもったいない。鈍行列車に乗り、駅に停車するごとに人が乗り降りするのを眺める。そんな何でもない時間が旅の面白さだと『深夜特急』を読んで思うようになりました。

村上春樹のインタビュー集

つげ義春とぼく』も旅の本。つげさんの漫画も大好きですが、文章も誰も真似できないほど面白い。起こる出来事をありのままに受け入れて、文章にする。これは簡単なようで実はすごく難しいことです。

 

印象的なのは、見た夢のことをそのまま綴った「夢日記」。夢の中でつげさんがテレビを見ていると「コマツ岬」での生活が紹介される。夢のなかの架空の岬なのに「瀬戸内のような雰囲気」など描写にリアリティがあるのは、感覚を言葉で飾るのではなく、そのまま言葉に移そうとするからだと思う。描写について考えるときに、つげさんの文章が僕にとってひとつの理想形です。

アンダーグラウンド』は、地下鉄サリン事件の被害者や関係者への村上春樹さんによるインタビュー集です。六十余人の証言が集められており、文庫の2段組みで800頁近い分量があり、その文字量に圧倒されます。

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証言者の生い立ちや日頃の生活の様子など、事件と直接関係ないことも切り捨てずに記述されています。新聞やテレビの報道だけでは知ることのなかった、事件とは少し離れた個人的な話が被害者の方々の人生の多様性を物語り、知っているつもりだった事件がまったく違うものとして浮かび上がります。

だからこの本の分厚さはとても重要なのですが、村上さんは事件後すぐに取材を始め、事件から2年足らずで出版されています。この社会的に大きな出来事に対して小説家がとった行動が、あくまで個人に向かう形だったところに感銘を受けました。

最後に挙げた「機械」は横光利一の中でも飛び抜けた異色作で、もう何回読んでもよくわからない(笑)。それなのに、すごく面白い。先輩従業員が一人いるだけの町工場に勤めはじめた男のモノローグ小説ですが、工場の主人がお金を持つと必ず落としてしまうとか、おかしな記述がいっぱい出てくる。

作者が物語ろうとするモチベーションも謎で、読めば読むほど、どうやってこれを書いたのだろうと思うくらい不思議な作品です。

今回10冊を挙げてみて気づきましたが、旅や住まいに関わる本が多い。

『大阪の宿』やつげさんの本に共通するのは目立つ人物、出来事がなくとも読者を引きつけることはできるということです。こうした作品を読みながら、文章表現の特異性とか可能性について、あれこれ考えていました。(取材・文/朝山実)

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「主人公が老人ホームへ向かう独り身の大叔父に同行したときに乗り合わせた謎の『読書家の男』とのスリリングな対話。駅で目にした女子高生が沼地でレンコンを抜く姿を妄想するフェティッシュな場面は一読の価値ありです」