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現代新書

現代の生きにくさから自分を救う方法、まったく新しい公共哲学

不気味な社会から「私」を取り戻す方法

「私」が置き去りにされている

この落ち着かなさはなんだろう?

ニュースでは移民排斥が声高に叫ばれ、テロの被害が頻繁に報じられる。感情が吹き荒れているのだ。そして日々新しいテクノロジーが登場し、まるでAIに支配されてしまうかのような近未来が喧伝される。テクノロジーが世界を席巻しているのだ。

思想の世界でも、あたかもモノが主役になるかのような不気味な哲学が流行っている。モノの台頭とでもいえようか。そして経済活動も貧困対策も、もはや一人の力ではどうにもならないことが明らかになりつつある。個人より共同性が求められているのである。

かつては「私」が主役だった。近代以降、デカルトの有名なフレーズ「我思う、ゆえに我あり」を引くまでもなく、自分の理性こそが絶対的なものであり、最も頼るべき力だったのだ。ところが21世紀の今、現実を顧みると、それが無力化していることを認めざるを得ない。

おそらく私たちのこの落ち着かなさの原因は、そうした「私」の無力感に起因しているものと思われる。わかりやすく図式化すると、社会は今や感情、テクノロジー、モノ、共同性といった、「私」以外の力によってカオス的に振り回されているのである。そのそばで「私」は不安におびえ続ける日常を送るしかないのだ。

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この状態は、実は公共哲学の再構築の必要性を意味している。なぜなら、公共哲学は「私」と社会をいかにつなぐかを考える学問であり、実践そのものだからである。「私」が無力化してしまった以上、従来の公共哲学モデルは維持できず、社会はますます混沌化していくだろう。「私」が社会を変えるという公共哲学の崩壊……。

かといって、「私」をあきらめるわけにはいかない。「私」以外私じゃないはずだ。この世界に存在しながら、まったくそれにかかわることのできない自分などあり得ないのだから。

そこで考えるべきなのは、「私」のアップグレードである。無力化した「私」をアップグレードすることで、再び社会をコントロールする力を取り戻すのだ。それにはどうすればいいか?

 

先ほどの感情、テクノロジー、モノ、共同性は、いずれも抗しがたい力であり、見方を変えると、各々は独立した強力な知であるといってよい。具体的には、感情の知でいうとポピュリズムや再魔術化等が、テクノロジーの知でいうとポスト・シンギュラリティ等が、モノの知でいうと思弁的実在論やOOO等が、共同性の知でいうとニュー・プラグマティズム等がキーワードとして挙げられる。私はこれらを『哲学の最新キーワードを読む 「私」と社会をつなぐ知』(講談社現代新書)で丁寧に解説した。

問題はその中で「私」という知だけが置き去りになっていることである。本来の主役であるはずの「私」が。それなら、これらの多様な知を一つずつ独立した項ととらえて、「私」がすべてをつなぎ合わせればいいのだ。そうすれば再び「私」は主役の座に返り咲くことができるはずである。言い換えると、これらの知を「私」の中に取り込むことで、〈多項知〉ともいうべき新たな知を築けばいいのである。

取りも直さずそれは、「私」の理性による非理性的なものの弁証法的取り込みにほかならない。「私」を脅かす多様な知を、敵として切り捨てるのではなく、むしろ味方にするのである。いわばそれは「私」を核として、ネットワーク状に張り巡らされた多様な知を縦横無尽に掛け合わせる多項式の形成である。かくして「私」はアップグレードされるに至る。

考えてみれば、感情はうまく飼いならせば大きな力になりうる。それは理性の強度を高めるエネルギーなのだ。テクノロジーも使いこなすことができれば、力強い武器になる。モノもそれが人間にとって絶対的に他なる存在であるのなら、新たなパートナーにすればよい。共同性は、自分がその中で埋もれてしまうことさえなければ、むしろ大きな力だ。

時代の危機をもたらしているかのように語られるこれらの多様な力を、多様な知の力に変えて、「私」が社会を変えていく。これが〈多項知〉による新しい公共哲学にほかならない。これは世界にとっても望ましいことだといえる。コントロールされない知は暴走する可能性がある。ポピュリズムもインターネットもそうだろう。それはすでに起こっている。この混沌とした世界を救えるのは、やっぱり「私」だけなのだ。

読書人の雑誌「本」2018年3月号より

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