二・二六事件翌日の永田町。戦車と兵士たちはクーデター制圧軍。後ろはこの年11月に落成する国会議事堂。
歴史 昭和史

「クーデター」2・26事件を経験した若者達の「それぞれの回想」

「あれがもし成功していれば…」
戦後50周年をきっかけに、多くの元零戦搭乗員を取材してきた神立氏。その中には、戦前の日本の歴史転換点となった二・二六事件の現場に居合わせた者がいた。海軍兵学校、予科練の学生だった者は、クーデター制圧軍として、また、より若かった世代は、現場に隣接する旧制中学の生徒として。のちに、零戦搭乗員として太平洋戦争の最前線で戦うことになる若者たちは、そこで何を感じ、何を思ったのか。

わずか5キロ離れたら、誰も事件を知らなかった

昭和11(1936)年2月26日水曜日、「皇道派」と呼ばれる陸軍の一部青年将校が「昭和維新」を号し、1500名近い下士官兵を動かして首相官邸や重臣、新聞社などを襲い、高橋是清大蔵大臣、斎藤実内大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監らを惨殺、鈴木貫太郎侍従長に重傷を負わせる叛乱事件が起きた。

岡田啓介総理大臣は、義弟の松尾伝蔵陸軍大佐が身代わりになって危うく難を逃れたが、日本の憲政史上にかつてない規模のクーデターであった。二・二六事件と呼ばれる。

襲撃を受けた重臣のうち、岡田総理、斎藤内大臣、鈴木侍従長はいずれも元海軍大将で、岡田総理は事件後、内閣総辞職により辞任するが、のちに太平洋戦争が始まると、戦争の早期終結、東條英機内閣の倒閣運動に奔走、鈴木侍従長は事件から9年後の昭和20(1945)年、総理大臣となり、太平洋戦争の幕を引く大役を果たしている。

事件から82年もの歳月が過ぎ、いまや当時のことを記憶する人も少なくなったが、私は20数年にわたり、元零戦搭乗員を中心に、かつての海軍関係者のべ数百名を取材するなかで、この事件についての興味深いエピソードや論評をいくつか聞いてきた。そこでここでは、そんな二・二六事件にまつわる語られざる余話を紹介したい。

 

中央気象台(現・気象庁)の観測記録によると、事件に先立つ2月22日、関東地方は、南岸低気圧の接近で、まれに見るほどの大雪に見舞われていた。2月23日の東京の積雪量は、観測史上第3位の36センチと記録されている。事件が起きたのは、その雪がまだ解けずに残る26日早朝のことだった。

叛乱軍による重臣への襲撃が終わったあと、朝8時頃からまたも雪が降り始め、翌朝までにさらに7センチの積雪が記録されている。横須賀にあった海軍士官御用達の料亭「小松」(2016年、火災で焼失)の創業者で、当時87歳だった山本小松さんが、事件の一報を聞き、

「横須賀で雪が二尺も積もるなんて滅多にないことで、なにかありゃしないかと思ってたんです。私が11歳の頃、井伊掃部頭様が桜田門外の変で殺されたときも、やっぱり大雪でしたし……」

と回想し、昔からの馴染み客だった岡田総理、斎藤内大臣、鈴木侍従長の安否を気遣ったとの話が、旧海軍関係者の間で伝えられている。昭和11年は「桜田門外の変」から76年、幕末当時のことを憶えている人がまだ存命だったのだ。

元零戦搭乗員の小野清紀(きよみち)さん(97)は、旧制九段中学2年生のとき、思わぬ形で二・二六事件に遭遇した。

小野清紀さん。昭和20(1945)年、零戦の翼の上で

雪の積もった朝、東京市小石川区(現・東京都文京区)音羽の護国寺の門前にあった自宅を出て、市電に乗って九段下に着くと、軍人会館(戦後・九段会館。東日本大震災で被災し2011年廃業)の前に高く土嚢が積まれ、重機関銃が目白通りを睨んでいたという。

「ものものしい雰囲気ですが、誰もなにも言わないので学校に向かって九段の坂を上がっていくと、坂の途中、靖国神社の大鳥居の正面にあった偕行社(陸軍将校の集会、社交施設)前には、カーキ色に塗られた陸軍の乗用車がずらりと並び、それぞれのフロントガラスに、『陸軍大臣』『軍事参議官』などと書かれた紙が貼ってありました」

1時間目の授業は通常通り行われたが、2時間目の途中、学校に突然、憲兵がやってきて、ほどなく生徒たちに帰宅が命じられる。そのとき初めて、陸軍の一部叛乱部隊によるクーデターが起きたことが生徒たちにも伝えられた。

「学校を出て、市電に乗ろうとふたたび九段の坂を下りると、靖国通りは当時としてはめずらしく交通渋滞になって、自動車が列をなしていました。市電も、一部路線は迂回させられたものらしく、九段近辺では何両もの電車が溜まっていましたね。
ようやく市電に乗って、昼頃、音羽に帰ると、自宅あたりではこの日の騒ぎのことをまだ誰も知らず、いつも通りの日常生活でした

いまでいえば、地下鉄有楽町線護国寺駅から、江戸川橋、飯田橋、ここで東西線に乗り換えれば一駅で九段下だから、存外に近い距離である。わずか5キロ先の九段下では土嚢が積まれ、兵が機関銃を構えて警備にあたっているのに、音羽の住民がそれを知らなかったというのは、現代の感覚からすれば不思議な気がする。

それだけ情報の伝達が遅い時代だったのだ。翌27日未明、戒厳令が敷かれると、軍人会館に戒厳司令部がおかれた。

クーデター制圧のための戒厳司令部が置かれた軍人会館(九段会館)

小野さんは、のち、慶應義塾大学に進み、昭和18(1943)9月、海軍飛行予備学生(13期)を志願。猛訓練を経て零戦搭乗員となり、茨城県の谷田部海軍航空隊で特攻隊要員の海軍中尉として終戦を迎える。戦後は海上自衛隊に入り、対潜哨戒機のパイロット。退官後は全日空で教官を務めた。