メディア・マスコミ 行政・自治体 美術・建築 観光

日本で急速に進む「宗教の観光利用」の危うさに気づいていますか

「政教連携」なんていうけれど…
岡本 亮輔 プロフィール

当時の神社非宗教論の論拠は「神社は宗教の定義に当てはまらない」というものだ。要するに、キリスト教や仏教にあるような要素が見られないから、神社は宗教ではないというのだ。

堀は、この主張を一蹴する。仮にキリスト教だけを宗教とするなら、神道だけでなく、仏教も宗教ではない。しかし、「仏教や神道のごとき有力なる人類の信仰現象が包摂」できない宗教定義の方が間違っていると堀は言う。正論である。

 

神社を取り巻く強制力

同年11月には小口偉一が「神社神道と氏子の地域性」を寄稿している(読売新聞1954年11月24日朝刊)。

小口によれば、神道は個々人の信仰ではなく、町内会とほとんど重なる氏子組織によって支えられており、そこに問題がある。有力者は氏子組織を通じて顔を売ろうとし、氏子総代会が選挙戦のようになることすらある。

実際、戦後になっても、鹿児島市長が、地元神社の祭礼を市が主催したり財政補助を出したりできるかと文部省にわざわざ問い合わせた。

小口は「できないのは、わかりきっているはずであるのに、この程度のことさえ理解されずにいるのであるから、農村などでは、部落行事と神社行事が、しばしば混同される結果になるのであろう」とする。

小口が批判するのは、神社を取り巻く強制力だ。個々人の信仰とは無関係に、「個人の意思では容易に脱却しえない社会的、環境的な力が作用」する。

小口は、宗教集団が存続するために「地域社会に依存するのは、最も安易な方法」だが、地域依存は、宗教の意味を自ら消し去ることであるとし、神道を民族宗教として温存しようとする傾向を批判する。

政府による靖国神社支援への批判

1973年には井門富二夫が「靖国神社と国家護持 政治の介入は誤り」を寄稿している(読売新聞1973年7月29日)。靖国神社を国家が支援すべきであるという当時の議論を受けて書かれたものだ。

〔PHOTO〕iStock

井門によれば、世界のあらゆる地域には宗教があり、それぞれのナショナリズムと結びついてきた。日本では「神道とかかわりあう自然宗教が日本人の深層心理に眠っている」。そして、靖国神社は、こうした文化的背景を利用して、明治政府が金をかけずに国民を政治と戦争に動員するために作り上げた人工的装置であるという。

井門は、靖国神社に祀られることに意義を見出した民衆の気持ちを軽視することもできないとしつつも、政府による靖国神社支援は、政教分離という近代国家の基本を侵すものであり、さらには政権交代があればどうなるかわからないという点で、国家支援は何ら靖国神社の永続を保証するものではないと批判するのである。

新メディア「現代新書」OPEN!