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哲学

半世紀もくすぶっていた難問に挑んだ「天才哲学者」驚きの論考

「実在論ブーム」を読み解く
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このたび、ドイツの若き哲学者マルクス・ガブリエルを一躍有名にした著作『なぜ世界は存在しないのか』の翻訳が講談社選書メチエから刊行された。同書でガブリエルは、「新しい実在論」という立場を主張している。

私はこれまでカンタン・メイヤスーやグレアム・ハーマンらの「思弁的実在論」を紹介してきたが、ガブリエルの立場もそれに関係する。今日の大陸哲学では、「実在論ブーム」が広く巻き起こっているのである。

ガブリエルの「新しい実在論」とは、いかなるものなのか。ひとまず、「世界は存在しない」というキャッチーな主張は脇に置くことにする。それは実は、二次的なことだからだ。私の整理では、ガブリエルの言わんとすることの本体は、「本質主義vs.相対主義」という対立から抜け出す第三の道を開くことである。

「世界は存在しない」とは?

本質主義vs.相対主義というのは、極端に単純化すれば、次のような対立だ。

富士山を、別の場所からAさんとBさんが見ているとする。本質主義によれば、富士山「自体」が唯一の実在であり、AとBはそれを異なる見方で見ているが、「Aのパースペクティヴにおける富士山」と「Bのパースペクティヴにおける富士山」は、たんなる見方にすぎず、実在的ではない。自然科学によれば、富士山の実在は物質的・数理的に説明されるべきものであり、そしてその説明だけが真である。

相対主義によれば、我々はつねに何らかのパースペクティヴから見た富士山の見方しか知ることができない。「Aのパースペクティヴにおける富士山」と「Bのパースペクティヴにおける富士山」がそれぞれにあるだけだ。そしてそれはどちらも「主観的な構築」であり、我々に問題にできるのはそれだけである―実在的な富士山にはアクセスできない。

こうした対立が、大ざっぱではあるが、「ポストモダン」思想以後、解決できない問題としてくすぶり続けてきた。とくに人文学においては、「ポストモダン」以後に相対主義的傾向が強まり、それへの批判がたびたびなされてきた。

そこでガブリエルはこう論じる。「Aのパースペクティヴにおける富士山」と「Bのパースペクティヴにおける富士山」があるのは確かなのだが、それはたんに主観的な構築なのではない、それぞれに実在的なのだ。というのは、物事の実在はそもそも、特定の「意味の場」と切り離せない。

以上の場合では、「Aから見る」、「Bから見る」というのが「意味の場」の形成であり、富士山の実在性はそれに依存している。では、富士山「自体」はどうかと言うと、富士山「自体」とは、諸々の実在的なパースペクティヴの交差のことなのである―「意味の場」から完全に孤立しているような富士山「自体」は考えようもない。

 

ひじょうに民主的な哲学ではないだろうか。これは、複数の「意味の場」を共存させるオントロジー(存在論)だ。ここで、「世界は存在しない」というテーゼの意味が明らかになる。「世界」とは、実在のすべてを包括する最大の集合であるが、そのような包括はいまやできないのだ。実在的パースペクティヴは際限なく増加するからである。

ガブリエルは、自然科学こそが唯一実在にアクセス可能だという(広く支持されている)立場に否を突きつける。そうした科学主義は、特定の「意味の場」を特権化しているからだ。非科学的な実在性もあるし、ファンタジー的な実在性もある……しかしこの主張には少なからぬ人々が反発するのではなかろうか。

『なぜ世界は存在しないのか』著者のマルクス・ガブリエル氏

見方はいろいろだという相対主義ならばまだ「認識論的」だったわけだが、ガブリエルはさらに「存在論的」に相対主義を徹底している、そんなバカなことがあるか! と。さて、日本ではどういう議論が起こるだろう?

ガブリエルの哲学は、ファシズム批判の哲学でもあると思う。ひとつの特権的な「意味の場」の覇権を拒否し、複数性を擁護するという意味において。それは、戦後ドイツの歩みを隠喩的に示しているとも言えるかもしれない。

清水一浩氏の訳文はひじょうに丁寧で明晰であり、先端的な議論でありつつも哲学への入門書としても読める本書の魅力をよく伝えている。

うっかり本書の挑発的なタイトルに騙されて手に取った人が、「ある」ということの不思議に巻き込まれ、そこからまた他の哲学書にも手をのばすきっかけになれば、哲学研究に携わる一人として嬉しく思う。

読書人の雑誌「本」2018年2月号より

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