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なぜ日本人PKO隊員はカンボジアで殺されたか「23年目の真実」

すべては一冊の報告書から始まった

丸腰の隊員たち

すべては、ある1人の元警察官僚が20年以上前に記した1冊の報告文書から始まった。その文書が私たちに託されたのは、安保法制の議論で揺れる戦後70年の夏を迎えた2015年8月下旬。文書をめくると、すぐに飛び込んでくる四文字があった。

「隊長失格」―重い十字架を背負うことになったキャリア官僚の生々しい告白だった。

文書をまとめていたのは、日本が初めて本格的に参加した国連平和維持活動=PKOに文民警察隊の隊長として、1992年10月、74名の部下を率いてカンボジアに赴いた山﨑裕人警視正だった。「全員無事で帰国することが100点」―派遣前から、その言葉を唯一最大の課題としてきたが、叶わなかった。

 

帰国まで残り2ヵ月余となった93年5月4日、カンボジア北西部の辺境の地で、5人の日本人文民警察官らが武装勢力に襲撃され、1人が殺害されたのだ。亡くなったのは、岡山県警の髙田晴行警部補(33歳)だった。

中央に写るのが高田警部補

当時、日本は、東西冷戦後に勃発した湾岸戦争で、世界第2位の経済大国として人的貢献を果たさなかったと、国際的に非難されていた。そのような中、進められたのがカンボジアPKOだった。憲法違反ではないかと議論が沸騰、国会で紛糾の末、92年6月に可決・成立したPKO協力法により、自衛隊員600名が初めて海を渡った。

自衛隊の動向が衆目を集める一方、全国の各都道府県警から急遽集められた山﨑隊長以下75名の警察官たちが、武器を携行せず丸腰でPKOの任務に従事する「文民警察官」として派遣された。

髙田殺害事件の直後、報道は過熱。皮肉にも文民警察官という存在に初めて世間の注目が集まった。日本政府は「事件の真相究明を行う」と強調した。しかし、「停戦合意が成立し、戦闘が停止」していたはずのPKO活動の現場で起きた事件の究明・検証は、その後行われることはなく、隊員たちに発言の機会が与えられることもなかった。事件はいつの間にか人々の記憶から薄れ、23年の月日が流れていた。

「歴史に埋もれさせてはならない」

報告文書を私たちに託した山﨑は、部下の髙田が命を落としたカンボジアでの活動が歴史に埋もれていることに、強い憤りを感じていた。自らが語らなければ、歴史から葬り去られるという危機感からだった。

私たちは、カンボジアに派遣された元隊員のもとに、可能なかぎり足を運んだ。誰もが最初は「話していいのかどうか」逡巡していた。隊員のほとんどが、自身の経験を各都道府県警の同僚はおろか、家族にさえ話してこなかったからである。みな、「墓場まで持っていく話」と思っていたという。しかし、気持ちは隊長の山﨑と同じだった。「歴史に埋もれさせてはならない」そうした覚悟で重い口を開いてくれた。

一人ひとりの隊員が克明な記録を密かに保管しており、その量と、その過酷な中身は私たちの想像をはるかに超えるものだった。

現地でしたためていた日記、当時普及し始めた家庭用ビデオで隊員自らが撮影した50時間を越える未公開の映像―「戦闘が起こると防空壕に身を潜めるしかなかった」「市街戦そのものの戦場」「私は自動小銃を15ドルで買った」―その一つひとつの告白が、23年後にではなく、もっと早く、世に知らしむべきPKOの現実を伝えていた。