『サピエンス全史』の著者ハラリ博士〔PHOTO〕gettyimages
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『サピエンス全史』実はギャグだらけ!? 秀逸すぎる表現の数々

飛ばして読むのはもったいない
世界的なベストセラーとなった『サピエンス全史』。手にしたものの途中で挫折した人も少なくないだろう。どんなことが書いてあるのか。まるで村上春樹のような「秀逸な比喩」を味わいながら、読みどころをスラスラと紹介する後編です。

〔→前編はこちら gendai.ismedia.jp/articles/-/54348

宗教から科学へ

サピエンス全史』の下巻はまず宗教の話から始まる。

宗教は、ときに対立を呼ぶが、基本的には人類社会の安定を強めてきた。

そして近年になって、宗教は科学に取って変わられることになった。宗教に中世のころほど熱狂的に支持なくなったのは、科学がそれに取ってかわったからだ。いわゆる科学革命である。

科学があれば、人類は宗教がなくても生きていけるのだ。

 

14章では、アポロ11号について触れている。

1969年7月20日、ニール・アームストロング船長は人類として初めて月面に降り立った。これは人類だけではなく、宇宙的偉業であるとハラリ博士はいう。

「それ以前の四〇億年という進化の歴史で、地球の大気圏すら脱出しえた生き物はなかった。まして、月に足跡(あるいは触手の跡)を残した者など皆無だった」〔下巻、p.56〕

このカッコ内の触手の跡、というところに感心した(前編冒頭に書きました)。

つまり、月に行く可能性があったのは哺乳類だけではなく、触手を持つ生物、たとえばタコやイソギンチャク(の進化した末裔)だったかもしれないということで、冗談のようでもあり、じつに科学的な視点だとも言える。あまりいままでの人生で(私は)持ったことのない視点だった(手塚治虫の漫画『火の鳥 未来編』で少し類似した世界を見たことがあるくらいだ)。

触手をもった生物が月に到達する可能性を考えるのは、なかなか楽しい。

博士がただのスペースオペラ好きで、でろんでろんの触手を持ったタコ型火星人を想像していただけかもしれないのだけれど、その連想も楽しい。

ユーモアへの強いこだわり

科学が宗教になりかわり、人間社会の規範となっていった理由も示されている。

宗教は世界の成り立ちを物語でしか説明できなかった。

ニュートンは(科学は)物質の運動を簡単な公式で示した。それを利用すれば、宇宙のあらゆる物体の動きを説明し、予想できた。その差にある。

宗教家は世界を公式で示さなかった。

「「人間に働く力は当人の精神の加速度を当人の身体の質量で割った値に等しい」などという計算は、ついぞしなかった」〔下巻、p.65p〕

この、ついぞしなかった公式を具体的に書いているところに、著者の凄さをわたしは感じる。

「人間の働く力」=「当人の精神の加速度」/「当人の身体の質量」

いや、こんな公式はないですからね。博士の無駄な文章に敬意を表して、存在したことがない「宗教が提唱する、人生のやりがい法則」(私の勝手な命名)を図式化したまでである。

宗教は公式で世界を説明しなかった、とだけ説明すれば、べつだん「なかった公式」をわざわざ示す必要はない。ここにはやはりサービス精神が横溢で、ちょっと笑かしてやろうという気持ちがあるようにおもう。

私もときにそういう「必要のない実例ならぬ虚例」をわざわざ書くことがあるが、これがおもったより労力がいるのだな。馬鹿馬鹿しい例を考え出すのは、ただの比喩を考えるより、もっと強く激しく創造力がいる。

本論を進めるよりも、もっと時間がかかったりする。

うまいジョークをおもいつけず、そのことで原稿がしばらく進まなくなっていると、自分でも何をやってるんだと馬鹿馬鹿しくなる。でも、いったん考えると決めたんだから引けなくなる。

そういう葛藤が何度かあったので、人さまが似たようなことをやっていると、強く共感してしまうのだ。

けっこう力を入れてるとおもう。好きな箇所です。

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