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時事ネタ読み比べ芸人が「文春砲」という言葉を嫌う理由

小室哲哉・小泉今日子会見に思うこと
プチ 鹿島 プロフィール

芸能レポーターに「神対応でした」と言われても

ゴシップが必要な理由。馬鹿にできないのは下世話な記事にこそ大事な問題が隠れている場合もあるからだ。

今回の小室氏なら介護問題だろうか。神は細部に宿ると言うが、大事な問題は下世話な記事にこそ宿り、それで皆が考えるきっかけになることもある。そして、そういう役目も引き受けなくてはいけないからスターだとも言える。

だからこそ小室哲哉氏は引退してはダメだった。ゴシップ報道に負けてはいけないのだ。あんな報道はスカしていいし、言わせておけばいい。平気な顔してまた作品を生み出せばよかった。

photo by gettyimages

会見もしてほしくなかった。

有名人が私生活について釈明しても、所詮は自分を取り囲む芸能レポーターに「神対応でした」と言わるだけではないか。

あの言葉に何の価値があるというのか。

芸能レポーターに「神対応でした」と褒められたところで世の中(視聴者)にはまったく関係ない内輪の評価ではないか。

『今こそ梨元勝』という記事が朝日新聞の文化・文芸欄に載ったのは2016年の7月11日である。芸能レポーターだった故・梨元勝氏を振り返った記事だ。

『信念を貫き、人々の好奇心の最先端を走り続けた』

『鋭く迫る「お茶の間の代弁者」』

『自主規制 求められても屈せず』

という小見出しが目を引く。

梨元氏は制作者側から特定のタレントや事務所について発言を控えてほしいなどと求められると、

《「視聴者が興味を持つ話題なのに、自主規制するのはおかしい」と降板を申し出た。》

というエピソードが書かれている。徹底して視聴者側の人だったのだ。

 

それに比べると最近の「神対応でした」は芸能レポーターの立ち位置の変遷がわかる言葉だ。

視聴者の側に足場を置いているというより、芸能界の中の人に報告するために訊いてるだけ。なんなら自分も芸能界側の結構な人物だと思ってるフシがある。だから「神対応でした」と一見褒めているようで門番のような上から目線なのである。何度も言うがそんな褒め言葉、視聴者には一切関係ない。

内側の評価のために「不倫ごとき」で釈明会見などやらなくてよいのである。

公に出てきて釈明しない人はたくさんいる。加計孝太郎氏や安倍昭恵氏などたくさんいる。あらためて国会で問われているのは「佐川宣寿国税庁長官」だ。「森友学園」への国有地売却に関する内部文書が財務省に存在していたことが新たにわかった。前財務省理財局長だった佐川氏は国会で内部文書は廃棄したと再三答弁していた。

佐川氏は国税庁長官に昇格して以来、一度も記者会見を開いていない。森友学園問題で何かツッコまれるのが嫌なのだろうかと誰でも思う。周囲も佐川氏を隠しているようにしか見えない。

芸能人がプライベートの会見から逃げなくて、国会で論議されてる人たちは会見をしない。どう考えてもおかしいのではないか。

さらに先週は大竹まこと氏が会見を開いた。28歳の長女が大麻取締役法違反(所持)の疑いで逮捕されたからだ。「娘が大麻所持」という、本人には直接関係ないことでも会見をした。そこで大竹氏は、

《「私は公人なので話す義務も責任もある」としたが、長女の性格や仕事については「それは答えたほうがいいのか。どうしてもと言うなら私は答えるが」とリポーターをギロリと見つめ返し、質問を制したほどだ。》(『夕刊フジ』2月3日付)

「神対応」という言葉を使うなら、この会見こそ神対応ではないか。逆に問題提起をした。取り囲んだ取材陣はちゃんと何か言えたのだろうか?

公人という覚悟が芸能人でもあるのに、なぜ超・公人の佐川国税庁長官は就任会見をしないのか。大竹まこと氏の会見はそこまで考えて行ったのでは? そんな妄想までさせてくれた。

もう一度言う。佐川氏が会見しないのなら芸能人も会見なんかしなくていい。しかもプライベートの事で。ゴシップ報道されるだけで十分だ。

これも言っておきたい。私は「文春砲」という言葉が嫌いである。スクープを放つのは当たり前だからだ。文春砲といちいち騒がれるのはそれだけ他はスクープを放っていない証明でもある。だから「文春砲」という言葉は嫌いだ。

そのうえで指摘したいのは「文春が目立つのは新聞が弱体化したからでは?」という考え方である。

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