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ワイドショーはいつから力の弱いタレントばかり叩くようになったのか

芸能プロとテレビ局「愛憎の50年史」

ワイドショーを観ると、彼らの格好のターゲットとなるのはいつも「立場の弱いタレント」だ。大手事務所のタレントのスキャンダルは、スルーするにもかかわらず…。

一体いつからこうなってしまったのか芸能界とテレビ業界の裏側にある「力学」を、関係者の肉声をもとに浮き彫りにする、ノンフィクション作家・田崎健太氏の特別レポート。今回のテーマは、いまや独自報道をほとんど行わなくなり、芸能界のしがらみで身動きが取れなくなっている「ワイドショー」の実情だ。

日本人の「業」を映すメディア

人間の業というものは、どの時代でもそう変わらない。ただ、それを報じるコンテンツは、テクノロジーの進化や時代の皮膚感覚により常に変化する。

時代の劣情に寄り添ってきた、テレビのワイドショーにおける芸能ニュースはその最たる例かもしれない。

 

かつて、ワイドショーは「直撃」や「潜入」といった取材手法を多用し、芸能人の生々しい表情と肉声をスキャンダラスに報じてきた。土足で他人の家に踏み込むような番組のあり方には賛否両論あったが、一方で過激な路線が多くの視聴者に支持されていたことも確かだ。

しかし、いつからかワイドショーで「直撃」の映像を見ることはなくなった。

既存のニュースをフリップやボードで解説する。時には週刊誌編集部から素材を借りて、それを流すーー。いまや番組の内容は他のメディア、特に週刊誌やネットメディアが報じたニュースの「後追い」がほとんどとなってしまった。

ワイドショーはなぜ変質してしまったのか。その理由を解き明かすには、かつての「黄金時代」を知る人物に話を聞く必要がある。

「俺の発想は卑しいんですよ」

芸能レポーターの草分けの一人、前田忠明は、自らの転身のきっかけはテレビカメラの進化だったと振り返る。

「それまでのワイドショーというのは、スタジオトーク中心だったの。スタジオに脚がどーんとついたカメラを3台ぐらい置いて、ゲストを呼んで話をする。

そうしたらENG(Electronic News Gathering)カメラっていうのが出てきた。これは手持ちで持って走って行くこともできる。そういう取材をしたいというので、ぼくのところに話が来た。1978年とか79年のことだったと思うよ」

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1941年生まれの前田は明治大学を卒業後、出版社勤務を経て、光文社の契約社員として女性週刊誌「女性自身」編集部に所属していた。

「当時、女性誌は女性自身の他に『女性セブン』『週刊女性』『微笑』『ヤングレディ』の4誌。最初は事件班だったけど、そのうちに芸能に興味を持つようになって、1971年に五月みどりの離婚をスッパ抜いて認められるようになった。

当時の出版社は契約社員でもいい金をくれたんです。とにかくスキャンダルは金になるなと思った」

俺の発想は卑しいんですよ、と前田は笑う。

光文社では男性総合週刊誌「週刊宝石」の創刊準備に入っていた。週刊宝石編集部に移籍しようかと思っていたとき、フジテレビのワイドショー番組『小川宏ショー』から誘いがあったという。

ワイドショーの嚆矢は、NET(日本教育テレビ、現テレビ朝日)が1960年代半ばに始めた『ただいま正午・アフタヌーンショー』と『木島則夫モーニングショー』とされている。主婦層をターゲットとして、情報と娯楽を提供することを目的とした番組だった。

その後、65年4月からNHKで『スタジオ102』、同年5月からフジテレビで『小川宏ショー』、翌年1月からTBS『おはよう・にっぽん』が続いた。当初、スタジオトークが中心の生放送であったが、次第に中継やVTRなどニュース番組的な要素が増えていく。

ただし、初期のこうした番組は視聴者の支持を得ることはできなかった。ワイドショーが全盛になるのは1980年代に入ってからのことだ。

前田によると、前述したような主婦向け番組では、70年代半ばから少しずつ芸能ニュースを扱うようになっていたという。

ただし、テレビ局に報道局(部)は存在したが、芸能ニュースは日常的に追っておらず、取材態勢ができていなかった。そこで、芸能を得意とする女性週刊誌でスクープを飛ばし、有名記者となっていた前田に白羽の矢が立ったのだ。

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