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イスラーム国=シン・ゴジラ? 私たちは中東をどう考えればよいか

これは現代史を語ること
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中東を語ることは、現代史を語ること

昨年、同業者から「ズルい」、と怒られた。

中東情勢についてコメントを活字にしたとき、肩書きが「国際政治学者」となっていたのを、怒られたのだ。なんで? と聞いたら、「中東地域研究者」と名乗ってないからズルい、という。堂々と中東研究者と名乗らないところが、ズルい、という。

いや、べつに、名乗りたくなくて名乗っていないのではなくて、たまたまそういう肩書きを書かれてしまっただけなのだけど、アブナい地域ばかり研究して、と思われそうな不遇感、世間は研究の重要性をわかってくれないのではという被害者意識が、なんとなく「中東研究者」の間に、定着している。隠れ中東研究者なんてケシカラン、と怒られたのだ。

そんなことだから、私が今回出版した本など、きっとめちゃくちゃ怒られるだろう。歴史家でもないし、中東以外の国のことをちゃんと研究しているわけでもないのに、『9・11後の現代史』(講談社現代新書)なんて本を書くなんて、どういう了見だ?

専門のはずの「イラク」の「イ」の字はもちろん、「中東」の「ち」の字も出てこない。百歩譲って酒井の専門が国際政治だとしても、「国際」や「政治」すら、書名に出てこないじゃないか。

うーーん。

実は私自身も最初、「これでいいんだろうか」と思った。おこがましいし、なにより「深く勉強していないくせに知ったかぶりしてペラペラしゃべるバラエティ向けコメンテーター」みたいに見えるじゃないか。うーーーん。

だが、すぐに思い返した。「中東の歴史こそが世界の現代史の縮図」と言い続けてきたのは、私だ。20世紀を通じて中東で起きてきたことは、世界の、特に欧米諸国が行ってきたことのツケみたいなものだ、とは、私自身が言い続けてきたことだ。

そもそも「中東」という地域名自体が、19世紀末から20世紀にかけて西欧列強がアジア進出を進める過程で、その戦略上の都合でつけた名前だ。その意味では、確かに中東を語ることは、現代史を語ることでもある。

「IS=シン・ゴジラ」説

国際政治史の吹き溜まりとしての中東史、という側面は、第一次世界大戦末期のイギリスの「三枚舌外交」の矛盾を体現して発生した「パレスチナ問題」に集約されているが、その後、冷戦もまた中東に吹き溜まりを作った。

亡き国際政治学者、フレッド・ハリディーは、9・11が起きたとき、中東のアルカーイダなどの国際テロ集団やサッダーム・フセインなどの独裁者は、冷戦の「廃棄物」だ、と述べている。

 

ちょっと大仰にいえば、本書は、亡きハリディーに捧げるオマージュである。彼の発想を現代にまで発展させようとした、という目的が実現できたかどうかは不明だが、私なりにハリディーの議論を言い換えたのが、「IS=シン・ゴジラ」説なのである。

現代史のなかで吹き溜まってしまった人々が、その蓄積したエネルギーを(ポジティブにもネガティブにも)どう発散させてきたか、なぜ彼らが吹き溜まらざるを得ない状況が生れたのかに、光を当てたかった。

吹き溜まる人たちは中東出身者に限らないのだけど、なぜか中東で起きることは世界から吹き溜まった矛盾や理不尽を、アンプリファイアーで100倍くらい増幅したみたいになる。熱情も残酷も、なにからなにまで激しく表現される。

中東研究者がなぜ中東研究を続けているかというと、そのなんでもかんでも増幅して大事件にする中東の動乱ぶりが面白いからに違いない。だけど、住んでる人たちは面白いなどといってはいられない。100倍のアンプで「たいへんだあ」とがなっているのに、世界がぜんぜん耳を貸さなくなったら、そりゃあ世界に斜に構えた目を向けて、下手するとどこかに吹き溜まってしまうかもしれない。

中東に生きる人たちが抱えている問題が、単に人ごとではなくて、世界大で共有すべきネガティブな共有資源(コモンズ)だということを知ってもらいたかった。

そんなことが本書から伝わればいいなあ、というのが、同業者から怒られそうなタイトルを選んだ理由である。でも、怒らないでね?

読書人の雑誌「本」2018年2月号より

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