メディア・マスコミ オリンピック 医療・健康・食

平昌五輪前に知っておきたい「ドーピングが今もなくならない理由」

いきすぎた競争主義に意味はあるか
美馬 達哉 プロフィール

なぜドーピングはなくならないのか

スポーツ選手が、発覚すれば競技生命を絶たれるドーピングを行うのはなぜか?

これは個人としてのスポーツ選手が無知で愚かだからというわけではない。

注目すべきは、現在の商業化したスポーツ文化のなかでは、プロ・アマを問わずスポーツ選手は、個人としての人間というよりも、コーチやスポンサーやお抱えドクターなどのサポートチームさらにはスポーツ団体や国家をひっくるめたブランド名のようになっている事実だ。

いったん、こうしたシステムに組み込まれれば、競技能力のエンハンスメントを目指すため、選手には特別なトレーニング・メニュー、特別な食事、サプリメントなどが提供される。

それらの延長線上で、信頼していたチームドクターから渡された錠剤や施される特殊な処置が存在していたというのが、ロシアも含めた多くのドーピングの実態だったようだ。

パフォーマンス向上のための一種の「エンハンスメント連続体」のなかで、どこからがドーピングとして社会的に非難されるかは専門用語で書かれた最新の禁止表に掲載されているかどうかで恣意的に定まる。

こうした事態は選手個人の道徳性や知識の問題ではなく、競争圧力に過度に曝された近代スポーツというシステム全体の問題とみるべきだろう。

 

問われるべきは競争主義

ドーピングの哲学』を書いたジャン=ノエル・ミサはドーピングを単純に悪とみなす通念を批判して、次のように述べている。

公式のルールはドーピングを反則とみなしているが、非公式のルールは、一部の競技において、選手たちがドーピング精神に手を出すように強いているのである。このような二重のシステムは、すさまじい偽善を生み出している。

こうしたなかで生じつつあるドーピングの重罪化は、社会学の用語でいえば違反選手の「悪魔化」(ひどい悪人としてレッテルを貼ること)とまとめられる。

ドイツのように反ドーピング法を持ちドーピングそのものに刑事罰を科す国は少数派だが、ドーピングに詐欺罪や偽証罪を適用したりする国もある。

〔PHOTO〕iStock

また、マスメディアによるバッシングやスポーツ界からの追放など、ドーピングを行った選手は道徳的な悪の象徴のように扱われる。

普通のスポーツ選手たちに対しても、反ドーピングのため、競技大会以外の時期での日常生活への監視や抜き打ち検査、禁止薬物や機器の家宅捜索や個人の遺伝子検査などが行われる。

さらに、ドーピング検査を拒否することそのものがドーピングと同罪と見なされている。こうしてドーピング検査は選手のプライバシー権を侵害する程度を高めつつあるのだ。

また、本人にドーピングの意図がなくても、薬物陽性となった時点で処罰されることもある。

最近、日本でもカヌー・スプリント選手権でライバル選手の飲み物に禁止薬物を入れて蹴落とすというケースがあった。選手自身が自分の飲食物を十分に管理できなかった「自己責任」とされているが、こうした被害者非難もまた「悪魔化」の一種だろう。

システムそのものの競争主義という問題は反ドーピングだけではコントロールできないため、代わりに責任を追及しやすい選手個人への道徳的非難や監視が強まるわけだ。

ドーピングと反ドーピングのいたちごっこを続けるのではなく、身体や精神に介入する医学技術が飛躍的に発展しつつある現代、「より速く、より高く、より強く」というオリンピックの競争主義的価値観にまだ意味があるのかどうかを再考すべきときではないか。

新生・ブルーバックス誕生!