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高倉健の「死後の謎」を追って見えてきたもの

謎多きスターの素顔は…

いっぺん取材してみてくれんね

ある体育教師の話した自慢が、40年経った今もずっと耳に残っていた。

「お前ら、高倉健ちいう俳優知っとろうが。本名が小田いうてな。俺の教え子たい」

高校に入学したばかりの頃だ。教師の名は田代進といった。大学時代は器械体操で鳴らした有名選手だったそうで、体操部の顧問をしていらした。すでにかなりお歳を召されていたが、若い頃に身体を鍛えたおかげで、歩く姿勢などは現役の体操選手のように背筋がピシッと伸びている。動きがいかにも俊敏だった。

体力に自信のある分、授業はすこぶる厳しかった。懸垂や腕立て伏せ、ときにはわれわれ生徒を校門から外に連れ出し、学校の周囲をランニングさせる。サボっていると、鉄拳が飛んできた。

 

そんな怖い先生が相好を崩し、高倉健の高校時代のエピソードを聞かせてくれた。

「小田はひときわ太う(大きく)てな。喧嘩ばかりしよけん、よう怒ったもんばい。で、あるときボクシング部をつくりたい、ちいうけん、許してやったと」

高倉健が卒業した福岡県立東筑高等学校は私の母校でもある。1931年生まれの高倉と私では、30も歳が離れている。偉大なる高校の先輩というほかない。田代先生の話が本当だとすれば、今から70年前に高倉健を教えていたことになる。したがって、眉唾に違いない、とばかり思ってきた。

そんな伝説的な大先輩を取材するきっかけも、東筑高校の先輩からの話だった。もう一人のその先輩は、高倉から4年遅れて高校を卒業し、のちに高倉プロモーションの専務をされてきた。日高康という高倉の従兄弟だ。日高も私とは26歳違いだが、ひょんなことで知り合い、私の著作をたまに読んで連絡をくれ、激励していただいてきた。

発端は高倉健の一周忌から間もない2015年暮れのことだ。久方ぶりに日高と会うと、彼はこう切り出した。

「実は亡くなった高倉のことで、おかしげなことになっとるけん、いっぺん取材してみてくれんね?」

それが謎の養女と親族が揉めているという一件だった。本人の死からひと月ほどしたあと、とつぜん現れた養女、小田貴のことは世間の話題にはなったが、なぜか映画や芸能関係者はそこには触れない。彼女はいったいどこからやって来て、二人はどのようにして知り合ったのか。誰も知らないまま、死後、1年が過ぎていた。

私にとっての高倉健は、東筑高校の卒業生として誰もが仰ぎ見るような偉大なる存在だった半面、俳優高倉健については日本国中に大勢いる健さんの熱烈なファンより、知らないことのほうが多かったともいえる。だが、日高から話があったとき、ふと高校時代の体育教師の自慢話を思い出した。

生前の高倉はほとんど私生活を明かさず、謎の多いまま生涯を終えた。その上、誰も書かない養女のことを含め、死の経緯や死後に関する出来事まで報じられてない。その疑問に触れ、取材を始めてみようかと考えた。そこから始め、まとめたのが、今回の『高倉健 七つの顔を隠し続けた男』である。

あまりにも謎めいている

まず、高倉の生まれ故郷である福岡県中間市や北九州市の親族から取材を始めた。高倉には兄と二人の妹がおり、当人を含めて三人はすでに黄泉の世界に旅立っているが、四歳下の末妹の敏子は健在だ。彼女は東筑高校OGでもあった。

高校時代のボクシング部のエピソードは、雑誌やスポーツ紙で報じられてきたので、いわば誰もが知る事実ではあるが、「俺の教え子」という田代先生の話は本当だろうか。田代先生はつい数年前までご存命で、卒寿を過ぎてからも東京で開かれる東筑高校の同窓会にゲストで招かれてスピーチしていた。そんな話を敏子にぶつけてみた。

「あんたも田代先生に教わったんね。あの先生は、ハンサムやったけね、光源氏いうあだ名で、女子から人気があったんよ」

驚いたことに、高倉や実妹の敏子たちは田代のほかにもう一人、化学教師の竹尾先生にも教わっているという。竹尾は私の高校一年生の頃の担任教師でもあった。私はそんな親族をはじめ、近親者を訪ね歩いた。ノンフィクションではたいていそうなるが、取材を進めるほど、遠い存在だった高倉が身近な存在に思えてくる。