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沖縄、原発、宗教…日本の「すべて」をあぶりだす問題の書を試し読み

『アクシデント・レポート』【2】
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気鋭の小説家・樋口毅宏氏が5年もの歳月をかけてこの世に送り出した小説『アクシデント・レポート』。日航ジャンボ機墜落事故、オウム真理教事件、原発・沖縄問題など、「日本の何もかも叩き込んだ」(樋口氏談)だけあって、普段小説をあまり読まない方でもドキュメンタリーやノンフィクションを読むような感覚でぐいぐい引き込まれる名作だ。現代ビジネスでその一部を試し読み!

(第1回目はこちら→http://gendai.ismedia.jp/articles/-/54021)

退屈な優等生がそのまま大人になったような男

翌日からSの尾行を開始しました。豊島区にある築三十五年の家(ヤサ)の前で張り込みをしていると、玄関からSが出てきました。ネクタイこそ締めていませんが、さしたる特徴のない勤め人という印象で、私はこっそりと彼の後を付けました。

結論から言うと、Sは極めて模範的な一般市民でした。

例えば、日頃から近隣住民への挨拶はもちろん、電車の中で老人や妊婦に席を譲ったり、目の不自由な人の手を曳いて横断歩道を渡ったりと、退屈な優等生がそのまま大人になったような男で、嫌みたらしいほどでした。因縁をつけてやろうと一度思い切り肩にぶつかってみたのですが、逆に私のほうがふっ飛ばされてしまいました。そのときも、

「申し訳ありません。大丈夫ですか? 救急車を呼びましょうか」

ひどく心配されて、私は尻の埃を叩き、急いでそこを退散しました。

家に盗聴器を仕掛けました。本当は家宅捜索(ガサ入れ)をしてもよかったのですが、後になって赤旗が、「人権無視だ!」とか騒ぎそうなのでやめておきました。「おまえらだって散々やってきたことだろう」と言ってやりたかったですがね。そうしてSの家を四六時中監視し、盗聴しましたけど不審な点は皆無で、非合法の活動も一切認められませんでした。

本当は写真を見たときからわかってました。私は長年こういう仕事をやってきましたから、人間を見る目は人よりあるつもりです。Sは疾(やま)しいところなどない男でした。

その日も、耳に差し込んだイヤホンに、母子のやり取りが飛び込んできました。

「母さん、きょうはよく晴れてるから散歩にでも出ようよ」

「嫌なこった。私ゃあウチのなかが好きなんだよ。あんたは世間様から冷たい息子と思われたくないから、私といるところをアピールしたいんだろ。お見通しなんだよ、あんたの悪巧みは」

「そんなんじゃないよ。外に出て歩かないと足腰が弱ると思って」

「ひとりで出ておいで。まったくいい歳をして女もいないからって、母親以外に手を握る相手がいないのかねえ」

なんてクソババアだ。こんなに手の掛かるウメボシは、躊躇うことなく老人ホームにぶち込んでおけばいいと、私のほうが憤りを感じました。

「それじゃあ出かけてくるよ」

「まだいたのかい。夕飯を作る気はないから食べてきな」

Sは近所の公園に出向くと、首から下げたカメラで撮影を始めました。彼の得意分野は、動物や植物など、自然の風景でした。秋が近付くにつれ茂っていく樹木や、ベンチに座る老人から餌をもらう野鳥にシャッターを切り続けている様子を眺めているうち、ぼんやりと、よしなしごとが頭に浮かびました。いつかずっと前、どこかでSと会ったことがなかったか。昔からの友人のような気がして、他人とは思えなかった。もちろん後で調べ直しましたがそんなことはなかった。私はどこか感傷にも似た気持ちを打ち消そうと、吸っていたタバコを足で何度も踏みつぶしました。そのときです。

「あの、すいません、撮ってもよろしいでしょうか?」

ブランコに腰をかけていた私の前に、Sはやってきました。

「え……え?」

すっかり声が裏返っていたと思います。

「いや、あなたがさっきから、美味しそうにタバコを吸っているなあと思いまして」

先ほども言ったように季節は初秋でしたから、暑いということはないのです。なのに私の腋(わき)や背中からは、大量の汗が噴き出していました。

「よろしいですか?」

邪気のなさそうなSの顔に、私は曖昧に頷いていました。

Sがレンズ越しに覗いてきます。シャッターの音がするたびに、どぎまぎと私の心音まで写し取られていないかと、落ち着かない気持ちになりました。いいですねーとSの口から発せられると、何とも言えない、一種の恐怖を感じました。

「もっと自然な感じでお願いします。あ、いいですよー」

Sは前の週に、私が肩をぶつけてきた男だということを覚えていなかったようです。彼は口元に笑みを湛えながら、話しかけてきます。

「私もね、以前はタバコを吸っていたんです。ところが母親に止められまして。私の健康を気遣ってくれているのかなと思ったのですが、彼女曰く、『あんたが先に死んだら、誰が私の面倒を見るんだい?』。ひどい母親でしょう?」

言葉とは裏腹に、Sの声は弾んでいた。私は無理に笑顔を作るしかなかった。

「どうもありがとうございました」

それではと、被っていたハンチングの庇(ひさし)に手をやるSの背中に、私は気がついたら声をかけていました。

「あ、あの」

Sの大きな背中に、自分でも予想外の言葉が出ていました。

「一杯、飲みに行きませんか」

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