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近現代史 社会風俗

戦国時代、初めてクリスマスを目にした日本人はどう反応したか?

クリスマス・トリビア【戦国〜大正編】
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キリスト教伝来以来の日本のクリスマスをずんずん調べ、なぜ異教徒の祭典が日本化したのかを明かした話題の書『愛と狂瀾のメリークリスマス』。著者の堀井憲一郎さんに、調査で印象に残った「戦国時代〜大正期のクリスマス風景」を点描してもらった。

戦国時代に2000人が殺到!?

日本のクリスマス祝祭の歴史は、とても古い。

古い時代からもふくめて、クリスマスのこぼれ話を集めてみた。

キリスト教が1549年に伝来して以来、その信者たちによってクリスマスは祝われていた。

あくまで信者たちによって祝われ、教会でミサが執り行われ、キリスト生誕の物語が語られた。最初は親父たちによる説教の形であったが、そののち芝居形式でも披露された。いまでもカトリック系の幼稚園だと、園児たちによる芝居で、キリストの生誕などが演じられたりするが、あれと同じある。

この「クリスマスの芝居」が不思議な人気を呼ぶ。

たとえば1568年(永禄11年)の長崎・大村でのクリスマスは(当然、西洋の暦での12月25日なので、和暦では11月になる)大きな舞台を作り、そこでキリストの芝居を見せた。

イエズス会士の報告によると、桟敷席を設けて、希望者すべてに見せようとしたところ、信者の家族だけではなく、キリスト教信者でないふつうの日本人もやってきて、観客は2000人になったそうである。

2000人の観客を入れて芝居を見せるというのは、大変な規模である。東銀座にある歌舞伎座だって、そんなに人は入れられない。ものすごい熱気、たぶん何年も破られることのなかった日本観客動員数1位だったはずである。

ただし、数が正確ならば、だけど。

おそらくきちんと数えてなかっただろうし、「多い人だなあ」とおもって見てると、900人も入れば、それで「2000人だろう」と言ってしまうものである。

そもそも、これは「キリスト教がまったく信じられていない東アジアの島国に派遣された宣教師たちが、本部へ自分たちの活動を報告する書簡」に書かれた数字だから、多少「盛ってる(多めに言っている)」」と考えたほううがいいんじゃないだろうか。

まあ、検証も反証もできないので推論でしかないのだが。とにかくみんな必死で芝居と見ようとしたのは確かである。

 

純粋な野次馬精神

その前年1567年(永禄10年)に泉州の(つまり大阪の)堺で開かれたクリスマスの模様。

当時は「キリスト教信者の武将」がけっこうな数いた時代である。

その年のクリスマスは、かつて戦ったことのある武将たちがクリスマス祝会で同席した。

まあ、そういうこともある。フランスとプロイセン(ドイツ)は普仏戦争や第一次大戦や第二次大戦で戦ったが、仏軍の将軍と独軍の将軍が戦闘していない時期のクリスマスに教会で一緒になったら、礼儀正しく振る舞うだろう。1567年の堺でもそうだった。

(間違ってこれを戦国時代のクリスマス休戦と紹介されることがあるが、原典である『フロイスの日本史』を読む限り、クリスマスだから休戦したわけではない。戦ってないときに同席しただけである。キリスト教信者がキリスト教について語るとき、どうも熱くなりすぎるという欠点がある。それだとおもう)

この1567年の堺でのクリスマスは、地元住民の集会所を借りて開かれた。そこをクリスマスらしく飾り、信者が参集した。

集会所だから、街中にあったのだろう。キリスト教は当時は圧倒的に受け入れられていたわけではないし、また、徹底的に排除されていたわけでもない。異人たちの祭りとして興味深げに、やや遠巻きにしてみていた、というところだろう。

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