沖縄 格差・貧困

なぜ沖縄の貧困率は高いのか?

建設業の歴史からひもとく

沖縄の子どもの貧困率が29.9%(沖縄県, 2016)と発表された。全国平均は16.3%(内閣府, 2015)であり、約2倍の数値である。子どもに限定しない沖縄の貧困率は34.8%であり、こちらも全国平均18.3%の約2倍の数値である(戸室, 2016)。

なぜ沖縄の貧困率は高いのか。結論から述べれば、沖縄戦やその後に米軍基地が集中したことが主たる要因である。

だが、見落としてならないのはそれらを経験する過程で、いかに不公平な規制や仕組みによって、貧困が政治的につくられていったのかという点である。その不公平さは、特に建設業の規制や仕組みに集中している。

以下では、現在の貧困がつくられていった過程を建設業と関連付けながら述べる。

1982年、建設業界も基地建設反対!

沖縄が「復帰」して10年たった1982年の『沖縄建設新聞』に、以下のような記事がある。

沖建協はかねてから那覇防衛施設局、沖縄総合事務局の工事内容が県外業者重視の傾向にあるとしてその調査をすすめていたが、調査の結果、大型工事はすべて県外業者にまわっていることがはっきりしたとして、地元業者優先にむけて関係機関に本格的に働きかけることになった。その第1弾として22日午後、大田県議長を訪ね、同問題を訴えた。比嘉廣副会長は「県内で行う工事は県内業者優先でしてもらわないと困る。沖縄は他府県と異り離島県である、しかも大半が基地にとられているのが現状。それが何のメリットもないというのでは踏んだり蹴ったりだ。関係者はもっと沖縄に対して理解を示すべきではないか」と強い調子でたたみかけ、今にも、”基地撤去も辞さない”といわんばかりの剣幕に、大田議長もつい「前向きに検討します」と約束させられた。(『沖縄建設新聞』1982.2.24)

周知のとおり、沖縄には日本の米軍基地が集中している。それらを建設するためにいままで多額の補助金が使われてきたが、その大半は県外建設業者が回収していった。

その結果、沖縄の建設業の多くは本土企業の下請けを担った中小零細の建設会社で構成されている。

このような状況に対して、当時の沖縄県建設業協会の比嘉副会長は、「基地撤去も辞さない」覚悟で、県内企業の優先受注を訴えた。現在の規制緩和の流れからすると、規制をかける優先受注には違和感があるかもしれない。

しかし沖縄の建設業の歴史を振り返ると、公平な競争が展開されてきたことなどほとんど存在しないことがわかる。この陳情はそのような状況のなかで行われたものである。

 

自由競争という名の「出来レース」

復帰前、米軍の占領政府は基地建設をすすめる際に使用する資材をアメリカからのものに限定する規制をかけた。復帰後、日本政府は大規模工事の完工実績のない沖縄の建設業者を入札資格から外した。

沖縄戦では95%の住宅が廃墟となった。またほとんどの企業も再出発せざるをえなかった。

今は沖縄の建設業界をリードする国場組が本格的に再建したのが1946年、かねひでグループが起業したのが1947年である。それらの企業が創立間もない1949年には、本土の清水建設はすでに沖縄への進出を開始している。

このように、そもそも戦争の被害、そしてそこからのスタート地点が沖縄と本土の建設会社とでは大きく異なる。実績を重ねて徐々に受注規模を拡大できる現行の入札制度では、沖縄の建設業者は圧倒的に不利だった。

このように、アメリカも日本も規制をかけることで、自身に利益がまわり、沖縄の建設業者を下請け企業として落とし込む仕組みを整えた。上の建設業協会の度重なる県内企業の優先受注の陳情にもかかわらず、1982年の時点でそれはかなえられなかった。不公平な規制によって、沖縄の建設業者は占領政府や本土建設会社の下請けであり続けた。

そして戦後の米軍占領政府による規制、復帰後の日本政府による入札をめぐる規制は、オイルショックを契機に、1986年、自由競争路線へと舵がきられた。このように規制をかけて搾り取る体制を整えたうえで自由競争は開始されたのである。

その実態は「出来レース」と言わざるをえない不公平な競争であった。