アメリカ

アメリカを動かす「ホワイト・ワーキング・クラス」の正体

富裕層でも貧困層でもない。しかし…
池田 純一 プロフィール
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その意味では、『サピエンス全史』の著者であるユヴァル・ノア・ハラリのブームも含めて、今、歴史家の著作に注目が集まるのは、「歴史家」は「歴史」に対して中立的で、その分、誠実であり、歴史を通じて私たちを欺こうとうすることがないと思われているからなのではないか。

サピエンス全史

前回取り上げた『難破する精神』に記されていた反動家のようにノスタルジアに訴えることもなければ、革命家のように未来の希望に賭けることもない。彼らとは異なる、時間の流れに対する禁欲的な中立性が、現在(現代)における判断には求められるのかもしれない。もちろん、歴史家を装うことで信憑性を増そうとするという手合もいるかもしれないが。

小説は不思議なことに、たった一つの経験=物語から普遍的な何かを「悟らせる」ところがある。その経験として「記憶」を扱ってきたのがイシグロだ。

記憶がいかに生成され消滅するかをなぞってみせる。その個別の体験を模倣(シミュレート)してみせる。歴史家は、その個別性に立ち入らない(立ち入った人は歴史作家になる)。その意味で、文学は、記憶が毒にも薬にもなることを理解している。

そのような記憶を巡る多重的な解釈のあり方に自覚的になれるヴィークルとしてイシグロの作品が、2017年の今、評価された。ハラリたち歴史家が踏み込めない個別の「記憶」の生成・消滅の「体験」を扱うのが小説家であり、その名手の一人がイシグロだった。そのように捉えると、彼が今、注目されたことも納得ができるのではないだろうか。

彼は、ポスト・トゥルース時代の、物語が反乱する時代のいわば門番としてあった。そして、記憶はまた、ウィリアムズが論じる「クラス」の背後にある文化資本を形成する要でもある。

どうやらポスト・トゥルースの時代とは、記憶の時代であるようなのだ。

〈未来〉のつくり方
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