山口組 ヤクザ 暴力団

山口組「三国志」生き残りをかけた闘いの行方

ジャーナリスト・溝口敦が読み解く

日本最大の暴力団がいま、最大の危機を迎えている。暴排条例による外圧、先細るシノギ、半グレら新勢力の台頭――。

なぜ山口組は内部で争うのか、生き残るのはどこか。ヤクザ取材半世紀の著者・溝口敦氏の集大成『山口組三国志 織田絆誠という男』より、山口組三派分裂の流れをたどる解説をお届けします。

三つの「山口組」

2017年4月30日、それまでの「神戸山口組」を割って出て、「任俠団体山口組」
(その後同年8月「任侠山口組」と改称)が尼崎で結成された。

代表に就いたのは神戸山口組で若頭代行(懲罰委員を兼任)で、またその傘下の四代目山健組でも副組長だった織田絆誠(よしのり)(50歳・当時)である。

山健組には90人前後の直参(山健組本部に名を連ねる直系の若衆や舎弟)がいた(正規登録者数は1200人。うち服役者は200人)が、織田はその3分の1、30団体(正規登録者数では2分の1にあたる600人。服役者100人を含む)を引き連れ、任侠山口組を結成した。

同組は他の神戸山口組の直系組織(四代目真鍋組、三代目古川組など)と、六代目山口組系の組織(京滋連合)をも加え、おおよそ52団体で発足している。広域団体として、勢力は北海道・札幌から九州・鹿児島にまで及ぶ。

 

警察は任侠山口組の分裂を神戸山口組、もしくは四代目山健組の内輪揉め、内紛と見たがったが、実質は第三の山口組への分裂であり、新団体の誕生だった。

まとめていえば、六代目山口組(司忍組長、髙山清司若頭)は2015年8月に神戸山口組(井上邦雄組長、寺岡修若頭)を分裂させ、その神戸山口組が2017年4月に任侠山口組(織田絆誠代表、池田幸治本部長)を分裂させたわけだ。

ここに山口組を名乗る団体が三つ存在し、三派鼎立(ていりつ)の状態が生まれた。今後、三派のうちどこが勝ち残り、どこが生き残るか、「山口組三国志」という物語が始まっていく。

ご承知の通り、山口組は日本最大の暴力団である。三つに分裂した今なお六代目山口組のメンバー数は日本最大であり、神戸山口組も、任侠山口組も、ともに全国で五本の指に入ろうかという大勢力である。

山口組三国志の帰趨が、これから日本暴力団全体の動向を左右していくことは間違いない。

山口組三国志は組織と個人の物語になるはずである。そうでなくても、これまで二度発生した分裂劇自体が個人と組織との相剋の結果だった。

分裂にいたる因縁

分裂劇を理解するためには、ある程度周辺情報を知っておかなければならない。その意味で過去の経緯と因縁を箇条書き風に踏まえておこう。

①五代目山口組組長だった渡辺芳則は山健組(本拠地は神戸)の出身であり、彼が五代目組長だった時代(1989〜2005年)に山健組を優遇した。当時は「山健組に非ざれば山口組に非ず」とさえ言われた。若頭補佐の一人だった司忍が率いる弘道会(名古屋)に対しては、敵視しないまでも冷遇した。当時、「司忍だけは組内ナンバーツーの若頭には就けない」が渡辺五代目のホンネと伝えられていた。

②司忍は2005年、クーデター同様にして渡辺芳則を引退に追い込み、次の六代目であ
る山口組の組長に就いた。この司忍による山口組運営は今なお「六代目山口組」として続いているわけだが、「神戸山口組」が分裂・結成されるまでの間、井上邦雄と彼が率いる山健組は冷遇され続けた。つまり五代目から六代目への移行で山口組の主流派が山健組から弘道会に移り、山健組は非主流派に転落して冷や飯を食わされた。

③井上邦雄はついに2015年、司に叛旗を翻し、井上に同調する山口組の直参(直系
組長)たちを引き連れて山口組を脱退、別に神戸山口組を立てた。

④その幹部の一人だった織田絆誠は神戸山口組の結成から約一年半後、井上が神戸山口組でやっていることは司―髙山(山口組若頭。現在は府中刑務所で服役中)ラインが六代目山口組でやってきたこととなんら変わらないと公然たる批判に踏み切り、17年4月、任侠山口組を分派・結成した――という流れになる。

近年の山口組に一貫して流れているのは過去の組長や若頭に対する恨みつらみといえる。

司は山健組による優遇支配として、五代目・渡辺芳則と山健組を憎悪し、井上は弘道会による専制支配として、司―髙山ラインを嫌い抜いた。

つまり政権への批判は、どこの誰が山口組組長の座を取るか、という戦いだった。棒倒しゲームのように勝ち負けは単純であり、施策の善し悪しを問うものではなかった。

山口組の組長は原則として終身制である。命ある限り、組長の座に留まり続ける。この原則が崩れたのは五代目組長・渡辺芳則が在任途中で引退を強いられたのが最初であり、今のところ唯一の例である。

執行部に強制された五代目・渡辺芳則の引退が例外となるのか、それとも組員に人気がなく、支持されない組長は中途退任するというルールが山口組の新ルールになるのか、今のところ不明である。

六代目・司忍の代になってからは、幹部の離反や、それに伴う絶縁、除籍などの大量処分、最終的には分裂、別派の誕生など不祥事が続発している。もはや組長の座は「批判無用」の絶対ではないと見られる。すでに執行部(幹部)の同意や理解、協力なしに組長であり続けることは難しくなっている。

しかし、六代目山口組の司忍、神戸山口組の井上邦雄は、ともに組長の座に就くことを最終目的としていたとはいえそうである。

二人とも、まずトップになって山口組をどうしたいか、どちらの方向に進ませたいか、施政方針や抱負の類を持たなかった。彼らは組長に就任後はトップの座がもたらす権勢と経済的利益を貪ることに熱心で、自分の施政に疑問を持つことさえなかった。

二人は揃って組の運営に明確な理念や目標を持たず、組長の座をいわば「ヤクザ双六」の上がりと考えたから、容易に拝金主義や色ボケなど「暗愚の帝王」に成り下がった。

彼ら二人に比べ、織田絆誠は任侠山口組で組員の生活をどう変えたいか、ヤクザ業界全体をどう変えたいか、明確な考えを持っているように見える。

彼は山口組の歴史の中で初めて登場した理念や経綸を併せ持つトップといえよう。

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