北朝鮮 インテリジェンス

北朝鮮「武闘工作部隊」日本人妻と子供たちが辿った残酷すぎる運命

私が出会った北朝鮮工作員たち 第6回
竹内 明 プロフィール

高は、たびたび北海道に通っていたと、元同僚は語る。

「北海道で自衛隊の人と接触していると聞いたことがありました。当時は在日朝鮮人で自衛隊と接触できる人などいなかった。若い頃にかかわりのあった、旧日本軍の関係者との人脈が続いていたのではないでしょうか」

出張を続けていた高が、北海道紋別市のスナックで働いていた渡辺秀子さんと出会ったのは、1961年のことだ。

客として店を訪れた高が、秀子さんに一目惚れして交際が始まったのだという。高は1927年生まれで、1941年生まれの秀子さんは14歳年下だった。1967年、高は秀子さんと結婚している。

「当時は民族主義一色で、高のような朝鮮総連の幹部、それも金炳植の側近が、スナック勤務の日本人女性と結婚するなんてあり得ないことだった。ロシア人女性と結婚して別れさせられた総連幹部もいたくらいです。

だが、高の場合は許されていた。特殊任務のための隠れ蓑に必要だという名目で特例扱いになったのだと思います」(総連関係者)

 

結婚後、秀子さんは高が住んでいた埼玉県内に転居。長女・敬美さんと長男・剛くんをもうけた。

周囲から見ると、秀子さんは子供をよくかわいがる母親。幸せな家庭に映っていた。だが高は、職場の朝鮮問題研究所では家族がいることすら語らなかったという。

「高は普段ガードが固く、何も喋らなかったけど、妻の秀子さんには自分が工作員であることを明かしていたそうだ。

工作員は妻にすら自分の任務を明かしてはいけない。それを話していたと言うことは、秀子さんに本当に惚れていたのだろう」(高をよく知る人物)

しかし高は、1973年に忽然と姿を消す。本国に召還されたと考えられている。

本当に愛していたからこそ別れを告げられなかったのか、それとも日本の家族など簡単に切り捨てられたのか、今となっては分からない。

いずれにしても、残された秀子さんは愛する夫が消えた理由を知らなかったようだ。そして、最悪の選択をしてしまう。高を探し、五反田のユニバース社を訪ねたのだ。

秀子さんと二人の子供は、このユニバース社訪問の直後に行方不明となった。日本警察が、秀子さん母子失踪の実態解明に動いたのは34年後、2007年になってからだ。

しとやかな「お嬢さん」が工作員に

秀子さん母子失踪に絡んで、国際手配された人物がいる。木下陽子(本名・洪寿恵)だ。

陽子は1947年、在日韓国人の父親と日本人の母親の間に生まれた。韓国籍で、朝鮮総連とは関係を持たずに育った。琴をたしなみ、成績優秀。地元の一流高校から青山学院大学に進んだ。

ここで、もう一つの在日組織が登場する。陽子が参加した学生親睦団体だ。その団体を「留学同」、在日本朝鮮留学生同盟中央本部という。

1945年に設立された朝鮮総連傘下の団体で、日本の大学、短大に「留学」している「朝鮮同胞」の学生を集めて、団結や交流を深める親睦団体だ。各大学に朝鮮研究サークルの形で学生を所属させている。陽子は留学同を通じて、総連から奨学金も受けていた。

「奨学金には(在日韓国人団体の)民団系と総連が共同でやっている朝鮮奨学会と、総連中央の教育会が出す奨学金があった。それまで総連と縁がなかった木下陽子が、なぜ総連中央のほうの奨学金を受けたのかは分からない。

こうした奨学金を受けて、留学同に入ると、総連の綱領を支持するよう教育され、総連の活動に従事することになる。北朝鮮の思想について勉強し、民族的に目覚めるようになるのだ」(総連関係者)

ある公安捜査官は私に、この留学同とかかわったことが陽子の人生を変えたという見解を語った。

「朝鮮大学校の学生は、ほとんどが朝鮮籍だから世界をまたにかけた工作活動はやりづらい。留学同には、両親のどちらかが日本人だという学生が多く、日本籍や韓国籍の学生もいる。彼らは朝鮮籍の若者と違って、海外での工作活動に使いやすい。

北朝鮮の工作機関にとって、留学同は工作員となる若者をリクルートする絶好の場だと言っていいだろう」(公安捜査員)

陽子は、ユニバース・トレイディングの設立時に役員として入社。このときには、琴をたしなんでいた、しとやかな優等生だった陽子の姿は、一変していた。

ビジネスの才能を発揮する辣腕。そこまではいい。だが、同僚たちは彼女を、暴力的で、キレると何をしでかすか分からないと恐れたという。工作員としての厳しい訓練と思想教育が人格まで変えていた。

陽子は高大基が本国に召還された後、ユニバース・トレイディングの業務と工作活動を取り仕切っていた。そこに夫を探す渡辺秀子さんが現れたのだ。

公安警察の捜査によれば、陽子らが下した決断は、あまりに残酷なものだった。

秀子さんの子供たち、敬美さん(当時6歳)と剛くん(当時3歳)は1974年6月に北朝鮮に拉致されたと考えられている。福井県小浜市の海岸から工作船で連れ去られたというのだ。

「当時は、日本に工作船で入ってきた工作員が、在日社会によく入ってきていた。私の同級生の家にも、本国から来た男が泊まっていたこともあった。

なかには、上陸地点を調査する補助工作員的なことをするヤツもいて、『俺はこんな仕事を請け負った』などと自慢する口の軽いのもいた。子供二人を工作船で連れ去ることなど簡単だったんです」(ある在日朝鮮人)

秀子さん本人の行方は分かっておらず、木下陽子の命令で殺害され、遺体は海に遺棄されたとみられている。