サッカー

「音を立てて切れた」はずのサッカーへの思いが蘇ったあの瞬間

安永聡太郎Vol.12

体はガタガタになっていた

2005年、安永聡太郞は横浜F・マリノスから柏レイソルに移籍した。岡田武史監督の下でJリーグ連覇を成し遂げたクラブの中で居場所を失っていたのだ。
 
2004年シーズン、入れ替え戦に回り、アビスパ福岡を破ってかろうじて残留した柏ならば出場機会はあるはずだった。
 
しかし――。
 
「若いうちに(トレーニング)やんなかったから、俺、1試合90分まともに出ると、次の日、どっかが痛いんですよ。ニクバ(肉離れ)まで行かないんですけれど、筋肉が疲労性の炎症を起こして、結構な筋膜炎になる。だから週のうち2日はリラックスして、自分で調整していないと、ニクバ寸前になっちゃう。それぐらい筋力の継続性がなかった」
 
鍛錬を怠っていた安永の体は、ガタが来はじめていたのだ。

 

 「レイソルに行って、まともにできたのは、3カ月間ぐらいかな。あとはどっかしら痛くて、無理してやろうとすると、ピリッと来た。バチンと来るまえにやめとこうと休憩して」
 
彼によると、筋肉の痛みを我慢して練習したこともあったが、今度は腰痛が出てきたという。
 
2005年シーズン、柏での出場はリーグ戦8試合、カップ戦3試合のみ。得点は1という成績だった。シーズン終了後、安永は戦力外となった。
 
怪我が続き、彼はサッカーに対する情熱を失いつつあった。
 
「あと、当時、俺って人付き合いがそんなに上手くなかったんですよ。どこのチームに行っても、結局、監督たちと揉める。なんか煩わしくなっていた。もういいやと思った」
 
安永は29歳になっていた。最後にもう一度だけ、スペインで実力を試してみようと自分を奮い立たせた。
 
「スペインに行って、テストを受けて、それで駄目だったら諦めよう、と。だから、あの年(柏との契約終了後、Jリーグの)トライアウトは受けていない。マリノスにお願いしてユースの練習に参加させてもらって体を動かしていた。夏(の移籍期間)になったら、スペインに行こうと思っていた」
 
安永は知り合いに頼んで、スペイン人の代理人を紹介してもらうことにした。
 
安永はテストを受けたいのとクラブを紹介して欲しいと彼に頼んだ。すると1週間ほど経った頃、「3チームが興味を示している。こちらで契約をまとめるので日本で待っているように」という指示が入った。
 
ところが、その後、代理人から連絡はなかった。そして移籍期間終了の8月31日を迎えた。
 
「待っていたら、8月31日になった。それでもういいやって。これも俺の人生だと思って引退した」
 
かろうじて残っていた希望の糸がぷつんと音を立てて切れた瞬間だった。

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サッカー選手にとって必ずスパイクを脱ぐ時期はやってくるものだ。ただし、その見極めは難しい。年齢を重ねると、ポジショニング、周りの選手の使い方が上手くなり、体力、瞬発力の衰えを補うことができる。特に、サッカーが何事よりも上位に置かれる国でプレーしたことのある選手は、なかなか現役を引退しない。体の中、毛細血管の先までサッカーが入り込んでいるからだ。
 
ぼくは、安永はそういう選手だとばかり思っていた。怪我があったとしても、フェロールであれだけサッカーを楽しそうに語っていた彼が、あっさりとサッカーを辞めることが信じられなかった。
 
ぼくの言葉を聞いた安永は顔をくしゃくしゃとさせて、なんとも表現しがたい表情になった。
 
「なんか素直じゃなかったです。自分に対して。サッカーが好きで好きで仕方がなかった。だけど、それをバンと出してもいいのはスペイン。ああいう環境に行ったときには出せるのだけれど、日本に戻ってきたらできなかった。自分が控え選手ではなく、先発選手のグループにいたら、また違ったのかもしれない。控え選手のグループで、自分の弱さと継続性のなさが出た。彼らと一緒に監督の文句を言い始めたり」

結局は自分の弱さですよ、と吐き捨てるように言った。