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男をやめた私だって「親になりたかった。自分の子供が欲しい」

性別の隙間から見た世界【11】
鈴木 信平 プロフィール

「家族」は無敵の存在

年々、友達には似たような環境にある人が増えてくる。

原因は簡単。単純に異なる状況にある人とは付き合いが難しくなってくる。

結婚をすれば、日常はパートナーと共に築くものになるから、安易に自分の意志だけで何かを決めることには制限がかかる。

「今日は旦那の帰りが早いから」

「嫁さんがご飯を作って待っているんだ」

「最近、すれ違いが多いから今日くらいは」

これほどに、誘いの断りに正当性のある回答はない。

ここに子どもが加われば、更に難易度は高くなる。

「子どもが急に熱を出して」

「旦那の仕事が長引いたから子どもを見なくちゃいけなくて」

「子どもがいるから、急には無理だよ」

ますます反論の余地はない。

何もかもが正しいから、ここに不満を述べようものなら間違いなく非を被ることになる。

 

それに私自身、これらの回答が真っ当で誠実なものであることも理解している。ただ、私がその状況にないというだけで、私だって同じ境遇に身を置けば必ず同じ回答をすることもわかる。

けれども、理解しているからすべての都合を相手に合わせられるかと言えば、正直なところそんなに強靭な心を持っていないのが真実でもある。

会いたいと思って声を掛けて、断りの理由が「家族」であること。

会いたいから予定を組んで、その日をワクワクして迎え、当日になって致し方ない「家族」の理由でキャンセルになること。

そこには何も悪いことはなく、断る方だってつらいのも確か。すべては間違いなく仕方ないことだけれど、断られた側には予定が叶わなかった残念さと共に、ぽっかりと空いたのは予定だけではない事実が残る。

正直なところ、湧き上がる感情から目をそらし、誰も憎まず、誰も恨まず、自分を肯定して生きることは、そんなに簡単なことじゃない。

最近になって母親が学生時代の同窓一泊旅行に嬉々として出掛けるけれど、自分が同じ状況になった時には、母親と同じ気持ちになれる自信が今のところはない。

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今の私があるのは、間違いなく家族を優先して生きた母親があってこそのはずなのに、自分が立場を変えた時には諸手を上げて共感できない。

自分は何も変わっていないのに、友人が家族を持ったことによって変わらざるを得なかった日々が、友人が家族関係に一区切りついたことによって元に戻る。それがすべて叶うには、あまりに私の「片想い」が求められ過ぎてしまう。

その事実を誰にも気づかれることなく許したら、何だか自分の人生が寂しくなってしまう気がするのは、私が過剰に反応しているだけだろうか?