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高齢化進む「ハンセン病」療養所。その中にある保育園をご存知ですか

宮崎駿監督も協力
崎山 敏也 プロフィール

私は大学時代に科学史を専攻していたことから、メディアの仕事についたとき、科学(医学を含む)技術と社会の関係、課題について積極的に取り上げたいと考えていました。

当時話題となっていた、原子力、DNA型鑑定、フロンガスの問題などを取材する中で、何気なく手に取ったのが、毎日新聞写真部の西井一夫さんの著書『「昭和二十年」東京地図』です。本書の「東村山・立川」の章に描かれた療養所の様子に触発され、93年にハンセン病患者の取材を始めました。

東村山市と清瀬市の境界辺りを歩いていると、住宅街の中に突如、大きな森が現われます。これが国立ハンセン病療養所「多磨全生園」です。

敷地はおよそ35ヘクタール。桜並木や梅林など約250種、約3万本の木々が植えられた豊かな森は、入所者が「ここで一生を終えるなら、生きた証として緑を残したい」という思いでお金を出し合って苗を買い、植えて大切に育ててきたものです。

その全生園に正門から入り、右へ進むとほどなく、5年前に敷地内へ移転してきた認可保育所「花さき保育園」が見えてきます。

園舎の前にはベンチがあり、散歩中の入所者が腰掛けると、大きなガラス窓越しに子供たちの声や姿を感じることができます。

 

療養所の地域開放が可能になったのは、2009年に「ハンセン病問題基本法」が施行されてからのことです。入所者自治会の佐川修会長(現在86歳)が中心になり、東村山市も協力して誘致した結果、市内の別の場所にあった花さき保育園の移転が決まりました。

療養所では「ハンセン病に対する抵抗力の弱い体質が遺伝するかもしれない」と考え、入所者の男女が結婚する時は、男性が断種手術を強制されて子供ができない身体にさせられ、もし女性が妊娠した場合は人工妊娠中絶も行われました。

戦前は法的根拠がなく、優生思想の影響の下で黙認という形で行われていましたが、戦後になるとハンセン病患者は「優生保護法」の対象とされ、合法化された形で断種政策が続きました。

このように、子供を持ちたくても持つことができなかった入所者たちが暮らす園内に、今では子供たちの声が響くようになったのです。

「花さき保育園」の園内で、回復者の平沢保治さん(右)と森元美代治さん(筆者撮影)

まるで孫のように…

春は満開の桜、夏には梅採り、秋は木の実や落ち葉拾い、冬は霜柱踏み。子供達は園内の自然の中で遊んだり、散歩したりしながら成長してゆきます。

園長の森田紅さんには、開園直後から折に触れて話を聴いてきましたが、「ここは入所者さんの生活の場であり、お子さんにとっても生活の場。日常の生活の中で、互いの生活の時間の流れを大事にして、無理なくできる交流をしていく」という方針は、開園以来変わっていません。

子供たちは全生園のお祭などの行事に参加し、また花さき保育園の運動会や発表会も全生園の施設を借りて行い、入所者を招いています。

年に一度の発表会「おたのしみ会」で、子供たちが歌や踊りの練習の成果を披露した時、前出の移転当時の自治会長・佐川修さんは「自分のひ孫やもっと下の子供みたいな子供たちが飛んだり跳ねたり、大きな声を出すのを聴くと、ほんとうにうれしいです」と笑顔で語ってくれました。

入所者の中には、自分から保育園を訪れる人もいます。ある入所者の女性は、後遺症で曲がった手を見た子供に「どうしたの?」と聞かれ、「病気でこうなったのよ」と丁寧に説明していました。車椅子で園の前まで来て、そっと子供たちの様子を眺めるだけで帰っていく人もいます。