表札の字は故・日野原重明氏による(筆者撮影)
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高齢化進む「ハンセン病」療養所。その中にある保育園をご存知ですか

宮崎駿監督も協力

家族にすら拒絶されて…

ハンセン病問題を覚えていますか?

ある年齢以上の方なら、2001年、当時の小泉総理がハンセン病の回復者(患者だった人)と面会したことが大きく報じられたのをご存知かもしれません。

戦後、ハンセン病が治るようになっても患者の強制隔離政策は続き、「らい予防法」がやっと廃止されたのは1996年のことでした。熊本地裁が隔離政策を憲法違反と判断、国家賠償請求訴訟に敗れた国が控訴を断念した直後のことです。

その時をピークにハンセン病に対する社会の側の関心は低下しました。訴訟の中心にいた人たちも現在、大半が亡くなっています。

厚生労働省によると、らい予防法が廃止された1996年5月1日時点で、全国の13の国立療養所には5479人の入所者がいましたが、2017年5月1日時点では1468人に減少、平均年齢は85.3歳です(もっとも、私立の療養所も1つあり、またハンセン病が治る病気になった1950年代以降に治って退所した人、らい予防法が廃止されてから退所して社会復帰した人もいるので、国立療養所の入所者数=回復者数ではありません)。

しかし、「ハンセン病問題」はまだ終わっていません。らい予防法が廃止されて、強制隔離政策が終結してからも、故郷にいる家族や親類が拒絶しているため、帰る機会を持てないままの人もいます。

 

かつて、ハンセン病の子供が療養所に入ると、大人の入所者から本名ではない「園での名前」を作るように促されました。実家が「患者を出した家」だとわかると差別を受ける。故郷の家族を守るためでした。

戦前から、入所時の所持金は園に管理されるため、入所者たちは現金収入を得る目的もあって、小説、詩、俳句、短歌などを盛んに執筆・投稿し、そのレベルも高いものでした。その時も当然、故郷の家族に配慮して本名ではなくペンネームを使います。それを園での名前にしている人もいました。

例えば、回復者の平沢保治さん(90歳)は茨城県古河市の出身ですが、古河市で講演する時は、偏見が親族に向けられることを案じてペンネームで登壇していました。

初めて実名で帰郷し、母校の市立古河第二小で講演したのは2008年のことです。ですが、平沢さんは未だに玄関から自宅に入ったことはありません。

以前、私のインタビューに、平沢さんはこう答えました。

「母校の同級生も、いまの母校の子供たちも、私を『平沢さん』として歓迎してくれましたが、その場に肉親も親戚も姿はありませんでした。いまだに生まれた家の近くで講演しても、自分の家が見えても、敷居をまたぐことはできない。両親が眠るお墓にも公然とお墓参りはできないんです。

私の夢は、生きているうちに、肉親と一緒に生まれた家に行って、コップの水一杯でいいから飲もうということです」

療養所での体験を元にした小説『いのちの初夜』の作者、北條民雄の本名が公表されたのは、氏が1937年に亡くなってから80年近くたった2014年のことでした。このことからも、ハンセン病患者が本名を名乗ることの難しさ、ハンセン病患者の家族や親族に苛烈な偏見の目や差別があったこと、しかもそれが現在に至るまで続いていることがわかります。

肉親との縁が切れた入所者や、たとえ縁は切れてなくても、未だに堂々と故郷へ戻れない入所者は、亡くなると療養所内の納骨堂に入ります。

社会復帰した回復者も、療養所の入所者も、ハンセン病の後遺症を抱えて高齢化する中、最後まで安心して暮らし、十分な医療・介護を受けられる体制が必要です。一方、患者の家族も偏見や差別の被害者だったとして、国を訴えた「家族裁判」が現在熊本地裁で進行しています。

所内に響く子供たちの声

日本には現在、北は青森市の松丘保養園、南は沖縄県宮古島市の宮古南静園まで、13の国立療養所と1つの私立療養所があります。設けられた当初は人里離れたところであったり、離島だったりしたところがほとんどです。

一方、東京都にもハンセン病の療養所があることを、どのくらいの人が知っているでしょうか。