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ブルーバックス 科学

伊能忠敬と同じ歩幅で日本を歩き回る「謎の科学者」の正体

クマに遭遇、密漁を疑われ…

「ブルーバックス探検隊が行く」は、ブルーバックス編集部が最先端の研究を行う現場にお邪魔して、そこにどんな研究者がいるのか、どんなことが行われているのかをリポートする研究室探訪記。いまこの瞬間、どんなサイエンスが生まれようとしているのか。論文や本となって発表される研究成果の裏側はどうなっているのか。研究に携わるあらゆる人にフォーカスを当てていきます。

明治期の産業振興の基礎資料として誕生

地質学というと、以前は『○月○日富士山大噴火!』といった、オカルト的な話題としてメディアで取り上げられることが多かったのですが、東日本大震災のあと、地球科学の知見に対するまっとうな認識が広がるようになりました」

こう語るのは、産業技術総合研究所・地質情報基盤センターアーカイブ室長内藤一樹さん。

日本列島や地球の成り立ちにまで迫る地球科学の認知度が、このところ高まっています。この学問を支えているのが地質調査です。

「おもしろ研究」を探すべく、全国を飛び回るブルーバックス探検隊が今回訪ねる研究室は、この地質を調べて「地質図」を作っている人たちです。

 

地質とは、私たちの足元を支えるさまざまな岩石や地層のことを指します。田畑を覆う土壌や、人工物のコンクリートやアスファルトを剥いだ下の石のことです。地質学は、この地質を広く調べることで、日本列島の成り立ちを探っていこうという学問です。

地質図は、地層の種類や年代などによって細やかに色分けされ、ときに断層などの太い線が走っている地図です。国土地理院が発行する「地形図」とは違い、田畑や郵便局といった記号ではなく、鉱山や温泉の記号が記されています。この地質図作りに長く携わる、内藤さんに解説してもらいましょう。

「色分けされた一つひとつに、どの山にどんな岩石があり、どのような地下資源が眠っているのか、あるいはその土地の地形や地質によってどのような災害の危険性があるのか、といった情報が含まれています」

地質図は、一般に登山やハイキングで使うものとは異なり、たとえばリニア新幹線や高速道路といった大規模土木工事の準備、あるいは資源調査の参考にする、一風変わった特殊な地図です(最近の地形、地質への関心の高まりで、地質図をもってハイキングに出かけるという“通”な方もいらっしゃるかもしれませんが)。

地質図が作られ始めたきっかけは、明治初期にさかのぼります。富国強兵を掲げた新政府が行ったことは、産業の振興でした。具体的には、石炭をはじめとする各種地下資源のありかを探るのが目的だったのです。

「これが日本最古の地質図といわれています」と言いながら、内藤さんが広げて見せてくれたのは、明治9年(1876年)発行の「日本蝦夷地質要略之図」です(図1)。

アメリカから技術者として来日したB・S・ライマンが、のちに北海道開拓に従事する人材を育成していた開拓史仮学校の生徒らとともに3年をかけて北海道を調査し、完成させた200万分の1の地質図。北海道開拓の礎となりました。

[図1]日本最古の地質図「日本蝦夷地質要略之図」図1:日本最古の地質図「日本蝦夷地質要略之図」
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「その後、日本人が地質や鉱物の技術を学び、地質図を作り始めます。和田維四郎氏らが日本人で初めて描いたのは、伊豆半島の地質図(図2)でした」(内藤さん)

当時の地質図は、山肌が毛羽状の模様で描かれ、まるで幕末に初めて測量地図を作った伊能忠敬の描いた日本地図のようです。実際、「海岸線は、伊能忠敬の地図を基にしています」と、内藤さんは指摘します。

[図2]日本人の手による初めての地質図。伊豆半島を描いたもの図2:日本人の手による初めての地質図。伊豆半島を描いたもの
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「当時は、地形図も一緒に作りながら、地質図も描いています。地質調査は、谷筋を中心にしたかなりおおざっぱなものですが、これから20年かけて、1899年には100万分の1の全国地質図を作り上げています(図3)」

[図3]1899年に作成された100万分の1サイズの「大日本帝国地質図」図3:1899年に作成された100万分の1サイズの「大日本帝国地質図」
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畳2畳ほどの全国図は、1900年のパリ万博に出品され、その細かい印刷技術とともに評判になったといいます。わずか20年でこれほど詳細な地図を作り上げた明治の人の偉業には驚かざるを得ません。