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野球

私が「ドラフト採点」に違和感を覚える理由

100点、120点というけれど…

遅咲きの選手はどう評価するの?

ドラフト会議の終了を待って、監督や球団幹部に点数を求めることが恒例行事と化しています。今回も「100点」(中日・森繁和監督)「取りたい選手が取れたので、120点」(千葉ロッテ・井口資仁新監督)といったコメントが紙面に躍っていました。

正直言って、“ドラフト採点”には違和感を覚えます。その年のドラフトが成功だったか、失敗だったかについては5年、いや10年経たないことには分からないのではないでしょうか。

そこで今回は、開花するまでに時間のかかった“遅咲き”の選手について、2人ほど紹介したいと思います。

まずひとりは“赤ゴジラ”の異名で恐れられた嶋重宣さんです。主に広島で活躍しました。

嶋さんは1994年オフ、広島から2位指名を受け、東北高から入団しました。甲子園にも3度出場したサウスポーを“江夏2世”と呼ぶ向きもありました。がっしりした体から投げ込むストレートは重く、将来のエース候補と見られていました。

しかし、ピッチャーとしては全く鳴かず飛ばず。入団3年目の97年に、わずか2試合だけ登板した記録が残っています。

 

高校時代からバッティングには定評がありました。99年に野手に転向しましたが、広島外野陣の層は厚く、そうそう嶋さんに出番は訪れませんでした。

チャンスを掴んだのは04年です。前年にFA権を行使して阪神に移籍した金本知憲さんの抜けた穴を見事に埋めたのです。打つわ、打つわ。リーグ最多の189安打を放ち、打率3割3分7厘で首位打者に輝きました。

“赤ゴジラ”の愛称は、「背番号55」、すなわち松井秀喜さんに由来します。

嶋さんには鳴かず飛ばずのシーズンが9年間もありました。クビにならなかったのは年俸が安かったからでしょう。ブレークした04年も、開幕時点での年俸は700万円でした。これが3000万円も5000万円ももらっていたら、おそらく自由契約扱いになっていたはずです。

逆に言えば、嶋さんには運が残っていたということでしょう。12年に埼玉西武にトレードされた嶋さんは現在、西武の1軍打撃コーチ。これだけ長くユニホームを着られるとは、本人も思っていなかったのではないでしょうか。

続いては西武やダイエー(ソフトバンク)などで活躍した宮地克彦さん。89年のオフ、西武から4位指名を受け、入団しました。

宮地さんも嶋さん同様、高校(尽誠学園)時代はピッチャーです。甲子園にも2度出場しています。小柄ながら切れのいいストレートを投げ込むサウスポーとして注目されました。

プロ入り4年目の93年に持ち前の打力をいかして外野手に転向しましたが、01年までは目立った活躍がありません。言葉は悪いかもしれませんが、いつクビになってもおかしくない状況でした。

窮地を救ったのが02年に監督に就任した伊原春樹さんでした。2軍時代から打撃技術の高さに注目していました。

伊原さんの回想です。

「彼は常にイースタンリーグで打撃10傑に入っていました。元々、技術的にはしっかりしたものを持っていたんです。しかし、あまり監督受けする選手ではなかった。ちょこっと起用されて、それで結果が出ないからすぐに二軍落ちじゃ、なかなか力を発揮できませんよ」

下積み時代の長かった伊原さんならではの視点です。指揮官の期待に応えた宮地さんも立派でした。

この年、100試合に出場し、4年ぶりのリーグ優勝に貢献しました。打率こそ2割6分7厘でしたが、3番で勝負強いバッティングを披露しました。

宮地さんの“シンデレラボーイ伝説”には続きがありました。ダイエーに移籍して2年目の05年、3割1分1厘の好打率を残し、自身初のベストナインに輝いたのです。現在は独立リーグ・栃木のヘッドコーチを務めています。

嶋さんにしても宮地さんにしても、1度は「終わった」と言われた選手です。しかし、人間、どこで運命の歯車がコトンと音を立てるかわかりません。まさにプロ野球は人間社会の縮図といっていいでしょう。