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天皇も「一生の心残り」と悔やんだ、明治政府のある蛮行の記録

明治維新150年の光と影(2)

現場レベルでどんどん過激化

今年3月、「観光立国推進基本計画」が閣議決定された。これは2020年までに国内旅行消費額を21兆円、訪日外国人旅行者数を4000万人にするなどの目標を設定し、「世界が訪れたくなる日本」の実現に向けて政府全体で取り組む施策などを盛り込んだものだ。

同計画には、「国際競争力の高い魅力ある観光地域の形成」が必要とあり、「文化財・歴史的資源・自然等の観光資源としての活用」が明確に打ち出されている。その中でも神社仏閣はとりわけ重要な位置を占めるだろう。

東京では、浅草寺と明治神宮が外国人観光客に大人気のスポット。東京近郊だと、日光東照宮や鶴岡八幡宮、長谷寺などが有名だ。また、文化財の宝庫である古都・京都、奈良になると、清水寺や金閣寺、平等院鳳凰堂、東大寺、法隆寺、春日大社など、代表的なものだけでもかなりの数に上る。

そんなインバウンド消費のコア的存在として貴重な神社仏閣だが、今をさかのぼること150年前、近代日本の基礎を築いた先人たちは、あろうことか仏教と名が付く建築物や文化財をことごとく廃棄・処分する、空前絶後の「ヴァンダリズム(文化破壊運動)」を主導していた。これ自体は周知の事実だが、その実態について、詳しく知っている人は少ないのではないだろうか。

前回取り上げた浦上のカトリック信徒たちへの「流罪」処分の時期とほぼ並行して、明治政府は太政官布告、通称「神仏分離令」「神仏判然令」と呼ばれるものを発した。

これがいわゆる「廃仏毀釈」運動の火付け役となったのである。

 

近世宗教史を専門とする歴史学者の圭室文雄によれば、「神仏分離政策の目的の最大のものは、日本における国家公認の宗教を江戸時代の仏教から神道に転換させることであった。そのために、身分的には僧侶より神官の地位を引き上げる必要があり、一方では寺院の経済的基盤である寺領を削減し、檀家制度にかかわる神社を中心とする氏子制度を作り、寺と檀家との関係を断ち切ることであった」(*1)という。

明治政府は、もとより仏教そのものの排斥を狙っていたわけではなかった。神社から仏教色を一掃して「神仏習合」の慣習を禁止し、神社を天皇と国民をつなぐ中継地にすることが、明治政府の意図だった。

しかし、このような当初の意図を超えて、寺請制度のもとで江戸幕府に仕える立場だった寺院に反感を持つ地方の神官や、国学者などが扇動し、過激な「廃仏毀釈」運動へと発展していった。

地域ごとに多少の温度差やタイムラグ(地方によっては幕末期から活発化している)はあったものの、明治政府の号令を受けて全国で寺院や仏像・経巻などの仏具の破壊が次々と行われ、多くの寺院が廃寺・合寺の憂き目に遭い、短期間の間に膨大な数の文化遺産が消滅したのであった。同時に僧侶の還俗も進められ、生活に困窮する関係者が続出した。

仏像の顔面に弓を射込んだ

天台宗総本山、比叡山延暦寺の鎮守神であった日吉山王社(現日吉大社・滋賀県大津市)のケースを取り上げよう。

ここでは、諸国の神官出身の「志士」たちからなる武装した一隊が、大津裁判所から伝達されている明治政府の「御趣意」に従え、と寺院側に詰め寄った。

何回かのやりとりのあと、押しかけた一隊は実力行使にでて、神域内に乱入して土足で神殿にのぼり、錠をこじあけ、神体として安置されていた仏像や、仏具・経巻の類をとりだして散々に破壊し、積みあげて焼き捨てた。

仏像にかえて、「真榊(まさかき)」と称する金属製の「古物」がもちこまれて、あたらしく神体に定められた。日吉社は、本殿のほか二宮社以下七社からなりたっていたが、同様の処置は七社のすべてにたいしてもなされた。焼き捨てられた仏像・仏具・経巻などは一二四点、ほかに金具の類四十八点が奪いさられた、と報告されている。

そのなかには、大般若経六百巻が一点に数えられている例もあり、五十人の人足を動員しての半日余の作業だったことも考慮すると、全体としてはきわめて厖大な破壊行為がなされたことになる。(*2)

また、この時、一隊の指導者は、仏像の顔面に弓を引いて命中させ、大いに快哉を叫んだという。