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人格を壊して遊ぶ…日本で「いじめ自殺」がなくならない根深い構造

戦争中の全体主義を超えている…
なぜ「いじめ自殺」が後を絶たないのか? 「教育」なら何でも許されていいのか? 大反響となった「いじめ自殺を隠蔽するとき、教育者が必ず口にする『異常な論理』」につづき、茨城県取手市・中3女子自殺事件の核心に迫る。

「いじめ殺す」とは何か?

茨城県取手市・中3女子自殺事件のように、子どもが自殺に追い込まれ、いじめ殺されてしまうのは、逃げられず対人距離を調節できない閉鎖環境の効果が大きく関与している。

このような有害作用から子どもたちを守るために、閉鎖空間に閉じこめ強制的にベタベタさせる現行学校制度を見直すことを、公論の主題にしならなければならないのではないか。

ここでは、中島菜保子さんが学校のグループ(教員が含まれる可能性もある)によっていじめ殺された経緯から、閉ざされた集団生活のなかで、加害者がどこまでも加害を続け、被害者が内側から破壊されるしくみを考える。そして、国や自治体の「閉鎖空間設定責任」という新しい考えを世に訴える。

いじめ殺すとは、「さんざん苦しめ悩まして殺す。苦しめ抜いて死なせる」(『日本国語大辞典』)の意である。

資料は限られている。菜保子さんがグループに囲い込まれ、迫害され、壊されていった具体的な出来事についての報道は、教委に関する報道に比べて、とても少ない。

学校や教委は、生徒を外部社会の力に触れさせたくない。彼らを<自分たち教育のもの>にしておきたい。<我らの世界>で起きた残酷と不正を隠したい。当然、学校や教委は、生徒への直接取材をしないでほしいとメディアに強く要求する。

だからこそ、学校や教委が最もいやがることをしなければならない。

メディアは、学校と教委が子どもたちを<教育のなかの我らの世界>に囲い込んで隠蔽するのに対し、それをこじ開け、市民社会の公共性のもとに引きずり出し、照らし出さなければならない。それが社会正義の担い手としてのジャーナリズムの役割である。

菜保子さんがいじめ殺された経緯について、きちんと調査取材をして報じようとしたのは、筆者が知るかぎり週刊文春と産経新聞だけである。

以下、『週刊文春』2017年6月15日号と『産経新聞』2017年8月6日の記事から菜保子さんがいじめ殺された経緯を紹介する(二つの記事を要約しつつ合成しているが、まとまった文章をそのまま用いた箇所もある)。

 

「きもい」「うんこ」「クソやろー」

菜保子さんは、中3のクラス替え後、A子らのグループで行動するようになった。

進級直後の4月、「いやなクラスになった」と母にこぼしていた。

最初、素行の悪いA子と距離をとろうとしたが、「菜保子に無視された」と文句を言われ離脱できなかった。

そのうち、クラスメートの前で「きもい」「うんこ」「クソやろー」などと言われるようになった。

B子が4月まで交際していたA君のとなりに菜保子さんの席があり、二人が会話をすることがあった。それをB子が妬み、A子に伝えた。それから、いじめがさらにひどくなった。

A子が「行くよ」と命令すると、菜保子さんが「うん」と返事して、暗い顔でグループの後をついていく。A子が「早く来いよー、うんこー」と呼びつけていた。こういったことがしばしば目撃されていた。