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オィーッス!元気がないな、もう一丁!「いかりや長介」を語ろう

怖くて優しかった「長さん」の素顔
いかりや長介(いかりや・ちょうすけ)
31年東京都生まれ。戦争中は静岡県に疎開していた。'64年から「ザ・ドリフターズ」のリーダーを務める。大人気番組『全員集合』の終了後は、存在感のある俳優として活躍

「次いってみよー!」、「なんてな」。ドリフターズのリーダーとして、晩年は味のある俳優として、幅広い世代のファンに愛されたエンターテイナーの素顔とは?

お笑いの教科書を作った人

すわ いかりやさんが亡くなられて、もう何年になりますか?

碇矢 亡くなったのが'04年3月ですから、早いもので13年が経ちました。

西条 私はいかりや長介さん(以下、長さん)が自伝を執筆した際、構成に携わりましたが、日本のお笑いの教科書を作った方だと思います。

大変な勉強家で、歌舞伎、狂言、落語などを自分のフィルターを通したうえでコントの参考にしたかと思えば、ラスベガスや本場のディズニーランドに足を運び、ギャグのヒントを探していました。

すわ 付き人だった僕にも、「毎月LPを5枚まで買っていいぞ。新しい感覚を俺たちに伝えろ」と言っていたぐらいです。

碇矢 趣味もたくさんあったんですよ。ゴルフやクレー射撃もやりました。カメラのレンズを集めたこともあります。でも、どれも長続きしませんでした。

唯一、続いたのは計29回にも及んだアフリカ旅行です。「広大なところに身を置いてみると、ちっぽけなことで悩んでいる自分がアホらしくなる」と言っていました。生きたハリネズミをお土産で持ってきたときには本当に驚きましたけど。

 

すわ いかりやさんは年1回だけ長い休みをとって旅行に行っていたんです。僕は『8時だョ!全員集合』が始まり、高校を卒業した翌年に加藤茶さんの運転手としてドリフに参加。その後、いかりやさんの付き人になり、16年間ついていたけれど、当時は本当に忙しかった。

日曜から火曜が地方営業、水曜は都内でCMなどの仕事をこなし、木曜から土曜は『全員集合』の会議、稽古、本番が続きました。

碇矢 親父と会えるのは、『全員集合』の生放送が終わった土曜の晩ぐらいでしたが、いつも一緒に風呂に入ってくれました。その時間が一番うれしかったですね。親父のぬくもりを肌で感じることができました。

西条 家ではどんなお父さんだったのですか?

碇矢 普段は優しいのですが、怒ると怖かった。「そこに正座しなさい」から始まるんです。

すわ 正座は僕ら付き人に対しても同じですね。地方に営業に行ったときに僕が小道具のギターを忘れて、一つのコントが台本通りにできなくなってしまったことがあるんです。そのときはすごく怒られましたね。

いかりやさんは、「俺は舞台に出ない。おまえがお客さんに『僕が小道具を忘れたので、今日はみんな出ません』って謝ってこい」って言うんです。そこまで怒る理由はちゃんとあって、「枝葉のようにどんどんつながっていく笑いを、おまえが途中で切っちゃったんだよ」と。

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