国家・民族

明治維新150年の秋に、明治政府の犯した「罪」を学ぶ

シリーズ・明治の光と影(1)
真鍋 厚

しかし、この「勘弁小屋」などはまだ可愛い方で、「三尺牢」「雁木牢」と呼ばれる箱では、入れられた者の大半は気絶したという。特に「雁木牢」は、半畳くらいの狭い檻で、上下左右から尖った杭が打ち出してあり、立てば頭を打ち、座れば尻を突く作りであったため、常に中屈みの状態になっていなければならない、という身の毛のよだつ拷問器具だった。

このような蛮行が各地の収容施設で展開されていたが、当時の日本の政治家たちは誰も問題視しなかった。ストップがかかったのは「外圧」によってだった。

明治3年、英国代理公使アダムスが「カトリック信徒が残酷な取扱いを受けている」という告発を、在日外国人向けの英字新聞で目にし、明治政府に是正を訴えたのが始まりだ。政府は虐殺の事実を否定したが、アダムスが食い下がったため、渋々実態調査を行うこととなった(*4)。

「磔刑にしないだけマシ」

流罪決定直後に行われた英米仏独の4カ国の公使と三条実美、岩倉具視ら政府首脳との会見内容をみると、双方が何をもって「寛容」と捉えるかの「尺度」があまりにも隔絶していたことがよく分かる。

岩倉は「従来キリシタンに対する処罰は磔刑であった」といい、「しかし今ではそれも和らげられたことはお認め頂きたい」などと弁明した。

それに対し、独公使のフォン・ブラントは、「彼らをその宗教故に流罪に処することなしに、そのまま構わないでおくことはご無理でしょうか?」と当然の提案をしたが、岩倉は、信徒がキリスト教を棄てさえすれば、「全員放環〔釈放〕することになっている。従前の法律ではこれは認められていなかった」と述べ、「穏便の取り計らい」「寛大な扱い」であることを重ねて強調した。

仏公使のウートレーは、「貴国で穏便といわれていることと、われわれが考えている穏便はずいぶん違うようだ」と驚きを露わにし、家族を離散させ、財産を取り上げることが「寛大の処置」だとはとても思えないと釘を刺した。

つまり、明治政府は、「流罪」を悪いことだとは全然思っていない。むしろ「以前は磔刑だったんだからソフトになった」と言っているのだ。事実、岩倉は、ウートレーの反発に「ご異議があるのには驚き入ったしだいである」と呆れてみせた。

外交官の寺島宗則の主張は、宗教弾圧ではなく国法に反する行為(ミカド崇拝の拒否)への処罰、という苦し紛れの論理だった。

「我国の政治制度とミカドの権威は、我国の宗教を土台に成り立っています。ミカドは国民が敬礼尊崇する天照大神ならびに天孫の御後裔であらせられます。キリシタンは、全ての国民が神聖なるものとして考えなければならない対象を公然と軽侮するのです。彼らは天照大神をまつる神社への参拝を拒否します。このことは、取りも直さずミカドを侮蔑し奉る所以であります」(*5)。

だが、「岩倉使節団」はその後、米国大統領のユリシーズ・S・グラントや、英国女王のヴィクトリアなどと会見した際に、キリスト教禁制を解くように勧告され、説諭されたのであった。副使の木戸孝允は、「宗教と(和親)通商は関係ない」などと反論したりもしたが、キリスト教禁制が信教の自由を前提とする欧米諸国との条約改正の障害になっている事実に触れ、使節団はこれまでの見解を改めざるを得なかった。

明治政府は、明治6年、キリシタン禁制の高札を撤去し、流罪に処した信徒たちを解放した。全国各地に移送された3394人の信徒のうち死亡した者は662人にも及んだ。度重なる改宗の強要、監禁、拷問などの非人道的行為により、生き残った者の多くは肉体的にも精神的にも深刻な被害をこうむった。

これが岩倉たちが外国公使団に口酸っぱく説明した「格別に寛大にして刑外の処置」(*6)の実態であった。

島崎藤村の小説『夜明け前』ではないが、当時の日本は未だ夜明けには程遠かったのである。

                                 (つづく)

10月20日発売の拙著『不寛容という不安』では、本シリーズで取り上げた近現代史の闇を通じて、「不安」が他者への暴力を惹起する背景や、「分断」と「孤立」に向かう社会に対する処方箋を模索している。ご一読頂きたい。
〈参考文献〉

*1、*4、*6 片岡弥吉『日本キリシタン殉教史』時事通信社

*2、*3 浦川和三郎『切支丹の復活〔後編〕』日本カトリック刊行会

*5 安丸良夫、宮地正人『日本近代思想大系 宗教と国家』岩波書店