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日本 文化

誰も気づかなかった「日本人がクリスマスに馬鹿騒ぎするのはなぜか」

サンタという異物と、いかに戦うか

あなたは不思議に思ったことがないだろうか?――なぜ、日本人はキリスト教徒でもないのに、クリスマスであんなに大騒ぎするのだろう? コラムニストの堀井憲一郎氏はこのたび、『イエズス会士 日本通信』から『an・an』『Hot-Dog PRESS』に至るまで、あらゆる資料を丹念に読み込み、この素朴な「日本史ミステリー」に挑んだ。その謎解きの一部を、最新刊『愛と狂瀾のメリークリスマス なぜ異教徒の祭典が日本化したのか』から特別公開しよう。

火あぶりにされたサンタクロース

フランスのブルゴーニュで、サンタクロースが火あぶりにされたことがある。

ブルゴーニュのディジョン大聖堂で吊され、大聖堂前の広場に引きだされ、そこで火あぶりになった。

生身の人間ではない。クリスマスでお馴染みの、あの、サンタクロースである。
「聖なるキリスト降誕祭を異教化した罪」によるものだ。つまりカトリック教会によって、サンタクロースの存在は異端であると断罪されたのである。

さほど古い話ではない。1951年。日本でいえば昭和26年のことである。

当時の日本の新聞には、そのような外電は掲載されていない。20世紀フランスの偉大なる知性レヴィ=ストロースの論文「火あぶりにされたサンタクロース」によって当時の様子を知ることができる(『サンタクロースの秘密』レヴィ=ストロース、中沢新一 せりか書房・所収)。

 

サンタクロースが闊歩するキリスト降誕祭(クリスマス)はカトリック教本来の姿ではない、と教会は強く主張していた。そのため火刑に処された。ただ、すぐさま翌25日の夜には市役所にサンタクロースが“復活”し、市民に歓迎された、とある。

聖職者たちは、サンタクロースを火刑に処すことによってかえってかれの永続性を強めたのではないか、というのがレヴィ=ストロースの見解である。

そのころの日本は、アメリカ軍の占領統治下にあり、12月24日夜は歓楽街で大騒ぎが展開されていた。

当時の日本の新聞は「本来、キリスト教徒の祝祭日であるクリスマスに、無縁の日本人がなぜ馬鹿騒ぎをするのか」という疑問を繰り返し呈している。お馴染みの論説である。

これは、日本でのクリスマス騒ぎが始まった20世紀初頭から、繰り返し述べられる識者の意見である。そしてそれは100年を越え、21世紀になったいまも耳にする言説である。

「なぜ、異教徒なのに降誕祭に騒ぐのだろうか」という疑問には意味はない。

ただ、日本人として、この疑問文は“異教徒なのに”という部分に比重がかかっているのだとおもっていた。信者は、お祭りなので、騒げばいいのだろうと漠然とおもっていたが、どうやらそうでもないらしい。

1951年ブルゴーニュでのサンタ火刑報道からは、「クリスマスの馬鹿騒ぎ」には、フランスの教会も辟易している気分がしっかりと伝わってくる。

「クリスマス=キリスト教」が誤り?

フランスはキリスト教徒の国である。

1598年のナントの勅令によってプロテスタントの信仰の自由を認めたとはいえ、カトリック教会の力が強く、広くクリスチャンの住まう国、のはずである。その国において第二次世界大戦後にアメリカ主義的“サンタクロースのクリスマス”が広がるのを苦々しくおもっている人たちがいた。

サンタクロースは、“キリスト教にあらざる者=異端”のアイコンなのだ

1951年当時のフランスは「アメリカからの贈与」に助けられていた(上記レヴィ=ストロースの論文)。ほぼ敗戦国といっていい立場にいたフランスは、大戦での疲弊した経済をアメリカの援助によって復興させていた。アメリカの物資とともに、アメリカの文化やアメリカ精神が大量にフランス社会に浸透していくのを避けることができなかった。

サンタクロースは、その圧倒的なアメリカ資本主義を象徴している。だから、古きカトリックの伝統を大事にしたい人たちには、許されない存在と映ったのである。

《火あぶりにされたサンタクロース》の事例が示しているのは、「クリスマスの祭りは、じつはキリスト教とは本質的には関係していないのではないか」ということである。

それは同時にわが国での「キリスト教徒でもないのにクリスマスに騒ぐ」という行為が間違っていない、ということを暗示している。

クリスチャンでない日本人がクリスマスに大騒ぎするのは、日本人に問題があるのではなく、クリスマスのほうに問題があるのではないか。そう考えることができる。

そして、おそらくその考えが正しいのである。

フランスのディジョンで火刑に処したのは、“カトリック教会が考えているクリスマス祝祭とは関係ない余分なもの”なのだ。そして、わが国のクリスマスはその火刑に処された部分のみを(カトリック本来は関知していない部分のみを)受け入れ、ただ楽しむきっかけとしているにすぎない。そして12月25日の本質は、じつはそちら側にあるのではないか、ということである。