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「子供はいらない」と言えない人が抱えるモヤモヤを言語化してみた

ママたちを敵視するわけじゃないけど

「産まない」意思表明が難しいわけ

子供がいない。一時期、子供が欲しいと思って、妊活に励んだり、不妊治療にチャレンジしたが、できなかった。非常に短期間ではあるが、加齢だけではない、己の妊孕性の低さと向き合った。生き物としての不全感も十分味わった。

よくよく考えてみれば、自分は子供が苦手で、本当に子供を産んで育てる覚悟もなかった。今となっては、できなくてよかったと思っているし、もう欲しいとも思わない。「子供が欲しい」というのは、風邪のような流行り病のようなものだったのだ。30代中盤で、何者でもない自分に対する焦りだったのかもしれない。

 

子供を持つ・持たないというのは、本来は個人の自由である。自由であるはずなのに、持たない選択をした人は意思表明しづらい。「子供はいません」とは言えても、「子供はいりません」とは言わない。心の中ではそう思っていて、自分の人生で揺るぎない決意として固めていても、「子供はいらない」と言いにくい世の中である。なぜか。

結婚をしたら、「子供を持つ」という概念がセットでもれなくついてくる。夫婦ふたりでユニットを組むことに重きはおかない。それよりも、人員を増やして家族を形成するのが「当たり前」だと思っている人が多いからだ。

この「当たり前」というのが実に厄介だ。これだけ生き方も働き方も多様化しているのに、生殖に関しては「当たり前」がうっすらと蔓延している。そして、「当たり前」を振りかざす人の主語は、その人自身ではなくて、たいていが国家であったり、学説であったりする。

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「少子化で国難の時代に、女が産まないと自己主張するとはいかがなものか」

「生き物として、メスが子を産むのは当然のこと。自然の摂理に逆らうなんて」

おいおい、話がデカいな、といつも思う。そんなにお国のためを思って日々生きかい、と思う。そして、生物学的な話をされると、うんざりする。「浮気するのはオスの甲斐性で、子孫繁栄が生き物の根幹にあるからだ」とか、「哺乳類のメスは自らの命をかけて子を守り、育てるのが本能だ」とか。オスの特性、メスの義務……こういう生物学的な論説って、90年代の恋愛指南企画とかで流行ったけどさぁ、今は正直、説得力ないよね。生き物全般と比べられてもなぁ。だって、にんげんだもの。うしお。

当たり前を振りかざす人々には、国家が主語になる人、にわか生物学者になる人が実に多い。この類の説教くさい人たちは、大きなモノや強いモノ、大多数に支えられる正論にすがりつくのが大好きだ。彼らの特徴としては、こういうことを当事者に面と向かって言わないところだ。自分に害の及ばない匿名で、大多数に乗っかって正論を吐くのが気持ちのいい人なのである。

そんな人を相手にするのは労力の無駄。右から左へ受け流すことにしている。子供をもたない人は、この受け流す能力が鍛えられていく気もするよ。