政治政策 政局

「小池マジックの限界」が、音喜多都議の告白から見えてきた

「私たちは、ただの手駒なんですか?」
伊藤 博敏 プロフィール

なぜ見切りをつけたのか

情報の公開と発信に最も熱心な都議は、都民ファーストの会を衆院選の直前に離党した音喜多駿都議だろう。毎日のようにブログを更新、SNSも使いながら都民に有益だと思える情報を発信。説明能力の高さで、メディアへの出演も多い。

その音喜多氏が、小池百合子都知事に見切りをつけたのはなぜか。

情報公開は、小池氏が都議会自民党と対峙する際、「戦いの武器」にしたものである。「都議会のドン」こと内田茂都議などを「黒い頭のネズミ」に例えて、「ブラックボックスのなかで都政が決まっている」と批判、「いつ、どこで、誰が、何を決めたか」をオープンにし、都政の「見える化を図る」と、宣言した。

都政改革本部を設置、会議をすべて公開するオープンルールのなかで改革を推進、築地の豊洲移転も東京五輪の各種施設も、安全性と予算の膨張を都民にオープンにしつつ再検証。「盛り土問題」の発覚などで移転を凍結し、石原慎太郎元都知事らと都の官僚などの責任を追及して喝采を浴びた。

音喜多氏と小池氏は、同じ改革を掲げ、情報公開をその道具とすることで一致、昨年7月末の知事選で勝利した際、音喜多氏はわずか3人の与党「かがやけTokyo」の一員として小池氏を支えた。音喜多氏が離党したのには幾つも理由があるが、とりわけ「公約の一丁目一番地であった情報公開が不徹底であったこと」(音喜多氏・以下同)だという。

 

都民に向かっては「見える化」をアピールしながら都民ファーストの会で進むのは、都議にも党員にも詳細を知らせずに党を運営するブラックボックス化だった。知事選の最中、「私はルビコン川を渡りました。あなたたちと一緒にやっていきたい」という電話を受けて以降、小池氏を支えてきた音喜多氏が体験したのは、最初は伴走、やがて周囲を従わせて自分が独走する小池氏の「独裁への道」の1年2ヵ月だった。

【PHOTO】gettyimages

7月31日、熱狂のなかで小池都知事が誕生。音喜多氏らかがやけTokyoのメンバーは、9月20日、自民党員でありながら「小池指示」を打ち出した本橋弘隆・豊島区議ら「7人の侍」とともに、政治団体都民ファーストの会を立ち上げた。

この頃、音喜多氏と小池氏、及び小池氏を支える東京都特別秘書の野田数氏との関係は、「文字通り、希望にあふれるものでした」という。

「日常、我々が接触しているのは野田さんですが、ひんぱんに会って、いろんな案件を協議していました。上下関係はなく対等という立場。『野田さんにお任せしますよ』といった細かな案件でも、『いやいや一緒に考えましょう』と、ミーティングを重ねました」

関係が少し変化するのは、東京都の人事院勧告(10月18日)で「特別給は3年連続の引き上げ」となった時。音喜多氏らは、かがやけTokyoの路線を踏襲、反対の立場を取ったが、「与党が予算に反対するとは何事か」と、野田氏は怒り、隙間風が吹いたという。

野田氏の力が強まるのは、10月30日、小池氏が主宰する「希望の塾」が開かれ、事務局長として、塾の運営と候補者選定に決定権を持つようになってからだ。

「塾の方向性や、筆記試験の導入など、最初の段階では、私もかなり関わっていました。幹事長という役職にも就いており、塾生が都議選の候補になるわけですから、それなりの責任を感じたし、それこそ希望も持っていました。でも、年が明けるころには、『選考のプロセスから外れてくれ』と言われたんです。

『同じ候補者なんだから、選考プロセスには入るな』という理由はもっともですが、要は選考に多くの人を関らわせたくなかった。党本部、つまりは野田さんが自分の判断で決めたかったんでしょう。そこには当然、忖度かどうかはともかく小池さんの意向が入っています」

小池・野田両氏の「独裁体制」は、年の明けた17年1月23日、都民ファーストの会が地域政党として正式に発足、会の代表に野田氏が就任して、より鮮明となる。なんでも自由に発言する「わいわいがやがや」の雰囲気はなくなって、党本部は上意下達の組織となり、意に沿わない人間は、野田氏周辺からパージされる。それは小池氏との関係を断絶されることでもある。

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