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教師の人権が軽すぎる…博多高校「暴力動画事件」で露呈したこと

昔に比べると可愛いもの、なのか

衝撃の事件、的外れのお詫び

福岡県の私立高校で、男子生徒が教師を何度も蹴った挙句、胸ぐらを掴むなどした動画が投稿サイトに投稿され、大きな問題となった。

生徒は1年生で、日本史の授業中、授業に関係のない動画をタブレット端末で見ていたところを教師に注意され、「逆ギレ」したのだという。

また、投稿された動画では、複数の生徒が笑い声を上げながら、教師が蹴られるのを見ていたことも衝撃であった。

子どもはつまらないことを面白がったりするものだが、もう分別のある高校生である。あの様子を見て、不快に思ったり、恐怖を感じたりすることはなかったのだろうか。

さらに、問題が明るみになった後、校長が出した「お詫び」のあまりに的外れなところも問題となった。

「本校では、これまでも道徳教育を推進し、暴力は絶対にあってはならないものであることを教育してまいりました」という文言はあるものの、結論としては、「本件を真摯に受け止め、今後は、改めてITモラルを持たせる教育」の充実を図るということが第一に掲げられていた。動画を拡散させたことがいけない、という受け止め方なのだろうか。

教師を蹴った生徒、笑い声を挙げる周りの生徒、そして校長の受け止め方、どれもこれも暗澹とさせられる。

 

暴力はなぜいけないか

そもそも、暴力はなぜいけないのだろうか。

もちろん、今回のケースを含め、暴力を振るうことは「犯罪」である。近年は、身体的暴力だけでなく、言葉の暴力についても厳しい目が注がれるようになっている。

しかし、犯罪だからいけない、いけないものは犯罪であるというのは同語反復でしかない。

暴力がいけないのは、それがわれわれの生命や安全はもとより、人間の権利、人間の尊厳を脅かすものだからである。

カントは「人間の権利への尊厳は無条件の義務である」と述べている。自らの権利を守りたければ、他人の権利を守ることが義務となる。われわれの人権は、このような互恵性の上に成り立っている。このような互恵性の均衡を破り、相手の人権を侵害する行為の最たるものが暴力にほかならない。

ときに暴力は、教育の名を騙ったり、愛を隠れ蓑にしたりすることがある。しかし、教育のためだろうが、愛ゆえだろうが、暴力のラベルを貼り変えようとする企てを許してはならない。暴力はどんなラベルを貼られても暴力である。

また、許容範囲の暴力、小さな暴力というものもない。暴力の大きさは、それが相手に与える被害と比例するものではない。たとえ暴力を振るった側が許容範囲の小さい暴力だと思っていても、それが相手に与えるダメージはとてつもなく大きいこともある。

アメリカの心理学者ピンカーは、その著『暴力の人類史』のなかで、暴力と戦うために尊重されるべきものは、「共感と理性によって喚起され、権利として言明される倫理である」と断じている。

そして、これは「近代の啓蒙主義と、そこから発展した人道主義と自由主義の結びつきが描いた道徳的なビジョンでもある」と述べ、何世紀にもわたるわれわれの祖先による、人権と自由を勝ち取るための戦いの帰結であることを強調している。

人類は、野蛮な原始時代、虐殺や拷問が蔓延していた中世、決闘や弱者への暴力が日常的であった近世などを通して、暴力に怯えつつも、それをなくすために知恵を絞り、努力を重ねてきた。何万人もの犠牲の上に勝ち取ったのが、暴力を否定する倫理であり価値観である。

したがって、暴力を振るうことは、社会からあらゆる種類の暴力をなくすために戦ってきた何百年にもわたる努力をあざ笑い、踏みにじることでもある。

それと同時に、われわれは、今享受できている平和を守り、この世界からさらに暴力をなくすために、あるいは暴力の残滓を摘み取るために、尚も努力を続けなければならない。

なぜなら、暴力にロマンチシズムを感じたり、それを美化したりする残滓は、この世の中のあちこちにあって、ふと目を離したすきに、あるいはこれくらいならよいと甘やかしている間に、いつしか息を吹き返してくるものだからである。